2013年6月16日 (日)

大陸の人々の面子<ミエンツ>(中国を愛す)

南京から棲霞山に行くとき、大平門を出ようとしたら、その頃丁度、蒋介石と閻、馮聯合軍との抗争最中で、南京も戒厳令を布かれて居る様な有様で、城門が憲兵と巡査で固められ、出入のものは厳しく調べられて居た。
 私の荷物も調べると云ふから、私は日本人だと云ふと、日本人でも中国人でも同じこと
だと云ふ。私は静かに杭州の日本○○だと云ふことを話して、私の身分を明にした名刺を
出したら、憲兵はそれを受け取って暫く眺めて居たが、調べなくてもよいと云ふて手を
引いた。が、一所に立合って居た片一方の巡査がなほしつこく調べると云ふ。私も少しむっとした。 
「身分が分かったらそれでいいじゃないか。国際間の禮義と云ふことも少しは考えることだ。
 それはお互いのことだ。わからない中はともかくも、身分が分かったらそれでいいじゃないか」
 「いけない。日本人でも中国人でも○○でも誰でも同じことだ皆平等だ。開け」
「よろしい、開くことはわけのないことだ。が、はばかりながら俺れも一国の代表者だ。
 この俺れの面子<ミェンツ>を何うして呉れる」
 私は私の右手の人さし指で私の顔を指さしながらキッ云ふてその巡査の返答を待った。
 「・・・・・」
 巡査はグッと詰まって物も云へないで居た。
 側で聞いていた一方の憲兵は、この警察の者は自分の方と所属が違ふから、この警察の方にも名刺をやってくれと静かに私に注意して呉れた。

 私は名刺を出した。巡査はその名刺を受け取って黙って引っ込んだ。
 おれの面子を何うして呉れるかと詰められて、巡査がグツとつまつたのだが、考へて見
                                                                                                                                
ると、それよりも先きに、同じく職を奉じて居ながら、憲兵だけ名刺を貰つて自分が貰は
なかつたので、その巡査の面子もつまつて居たのだ。その面子のつまりが、無理にはけ口
を求めて執拗に荷物を開けと出たのだ。自分の面子をなかなか大事にするが、それと同時
に人の面子をもよく重んずる。おれの面子を何うして呉れるかと私からつきつめられて、
それをもし押しきつて、貴様の面子なんか何うでもいいから開け、と無理に云ひきらない
ところ、まことに面子国の国民らしくて面白いと思ふた。

 又あるとき、私が杭州から上海に行く汽車中の話。
  私の前に、一人の色の黒い頑丈な中年の支那人が乗つて居た。平服を着て居たけれども 一見して軍人と見られた。
 この鐡道で何時もやつて居る様に、車掌が憲兵四五人を後に従へて、切符検査にやつて来た。その支那人は何々司令部と書いた護照を出して見せた。無論切符は持つて居なかつた。車掌は憲兵にこの男のことを任して先へ行つた。
『三等へ行け』
『何故だ』
『ここは一等だ』                           
『一等だつて同じことぢやないか』
『ここは切符持つて居るものだけ乗ることになつて居る』
『護照があるよ』
『だかち三等へ行けつて云ふんだ』
『行かないよ』
『出て行け』
『出ていけたあなんだ。みんな行ったたらおれも行く、おれ一人なら金輪際行かない』
『お前は何處の所属だ』
                                                                                                                          I
『貴様こそ何んだ』
『おれは憲兵だ』
 憲兵六人ぐるりとその平服の軍人を囲んだ。バンドの後ろの方に廻つて居た拳銃を
前の方へ寄せた。そうして出ていかないかと迫った。それでも、その平服の軍人は意地張つて席を立たなかった。平服のなかにはやはりこれも拳銃を持って居るらしかつた。
 車中の座席に居た澤山の人々が寄り集まって来た。 私はその平服の軍人と向かひ合って座ったまま腕を組んでだまって見て居た。                 
 六人の憲兵の中の一人が、そのときまで黙って居たその一人が同僚の間から抜け出て、その軍人の側に寄って、軽く肩をたたいて静かに云った。
『どうだ、あっちの方に席があるが来て呉れないか』
 平服の軍人は突然活発に云ふた。
『對了ー。そうだ。それなら話はわかる。向ふに席があるから来て呉れと云ふなら行かう。
出て行けって云ったらおれは金輪際動かないのだ』
                                                    
 あたりの誰にも彼にも明瞭にわかる様に声高々と云ふた。
                                                                                                                                                                                  
 そうだ。衆人満座のなかで出て行けと云はれて出て行つたんでは、この軍人の面子がな
いのだ。招かれてなら行ってやる。たとへそれは三等であつても何處であっても。
 その軍人は悠々と出て行つた。まわりに集まつて居た澤山の人々も誰一人何とも云はな
                                                                                                   

                                                                               
かつた。あざけりの眼を投げるものなどは一人もなかつた。みんなでその軍人の面子を
立ててやった。
 要するに面子<ミエンツ>だ。
 日支事件円満解決のコツも要するにこの面子だ。

(入澤達吉編「支那叢話」<三笠書房刊・昭和十三年発行戦時版>所載)

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2013年4月27日 (土)

支那の体臭

 数千年を経てなお変わることのない中国社会の基底を流れる通奏低音、その圧倒的な活力と匂い。

 中国学の泰斗が大らかな筆致で活写した、一九二〇~三〇年代の中国の風俗探訪ルポルタージュ。 中国の本質を理解するための一助となる好著再刊。

 「支那の体臭」後藤朝太郎著・四六判ハードカバー二八八頁 定価二一〇〇円(税込)

 バジリコ

 〒130-0022 東京都墨田区江東橋3-1-3

  tel:03-5625-4420

  www.basillico.co.jp

(H25・4・27 朝日新聞<朝刊>所載)

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中国台頭の終焉

 

「世界一」になる日は来ない?

リーマン・ショック以後、巨額の財政出動で危機をしのぎ世界経済の主要プレーヤーに躍り出た中国。 国内総生産で日本を抜き去ったが、10年以内に米国も逆転する。 というのが国際的な大方の見方だ。

 経済産業省出身の中国ウオッチャーの手による本書は、おそらく初めてその「常識」を覆す本となる。 中国が経済規模で米国を抜く日はやって来ない、というのだ。

 根拠として、国有企業の非効率、地方財政の闇、迫り来る超高齢化などの悲観的データが詳しく説明される。

 ただ著者はそこに希望も見いだす。 現在の日中対立の背景には「世界一の経済大国」を見据えて傲慢になった中国と、その中国巨大化に底知れぬ恐怖を抱く日本という構図がある。 だから双方が中国経済の真実を知れば、互いの経済を傷つけあっている余裕はないと知るはずだ、と。

 中国という巨大な国家・市場に関心をもつすべての人、とくに日中両政府の関係者にぜひ読んでほしい本だ。

                                原真人(本社編集委員)

*「中国台頭の終焉」(津上 俊哉著・日経プレミアシリーズ<935円>)

(H25・3・3 朝日新聞<朝刊>「読書」所載)

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2013年4月 9日 (火)

企業の中国進出のあり方について<中国を愛す>

 企業の中国進出のあり方について、どうであろうと自分は一度ならず有力な会社側から質問を受けたことがあるが、其の時の自分の答はこれである。

 日本の紡績などもその幹部のうちに大分中国人を入れてやらなくては納まるまい。 又利益の方も工人従業者に山分けとまではいくまいが心してよほど分配してやらなくては納まるまい。 行く処まで行かなくては到底悶着のなくなる時はあるまい。

 他人の土地に来て仕事をしている以上そこに障りの生ずるは当然である。 況んや利益を挙ぐることを目的として働く以上利害の衝突のあることは明白なことである。 唯そこに中国側の心理を視、人情を加味して所謂人間味のあるやりかたをなすことが必要である。

 ここに述べた自分の卑見は第三者としての考である。 若しも当事者として立つ時には容易にやさしい顔も見せられぬとはよく人の云う所である。 恩威並に行われるようにやることは容易でないが、要するに問題は人にあることである。

 中国のヤングチャイニーズが自覚した活動を始めたとか日本の投資家をいじめたと云って日本人は悲観するようなことはいらぬ。 経済的の利益を独占せぬように地方地方の人民と懇親を深めつつ事業を興して行くならば折り合いの悪るかるべき筈はない。

 或は又中国人が簡易工業を起こして日本の雑貨を排斥し、駆逐するようになったからとて之も悲観するには及ばぬ。 中国に対してすべて悲観は禁物である。 どこまでも中国は通ずる国である。

 中国工業が我に追い付いて来たなら先きへ先きへと日本人の方は一歩精選されたものを造りだすことを研究していることが大事である。 又中国民衆の嗜好に合うもの又購買力に合うもの又中国買弁に利益を与え得るものを次から次へといつも考えて行くことが大切である。 さもなければ行詰まるのである。 

 それ故に中国に対することはつまりいつも絶えずその研究を進め悲観せず楽観的態度で積極的に向かう可きである。 中国ぐらい前途の有望で未知数のところはない。 又中国の国土ぐらい奥深いところはない。 又中国人ぐらい甘味のありゆとりのある国民はない。 

 同時に又中国人ぐらい矛盾の多い国民はないのであるから、一方にいくら外人を拒むような態度が見えていても他方には温容で暖かい態度を持し個人的にも誠によい。 人をそらさないし又よく努めもする。 

 日本人のように一本調子でなくそこにゆとりがあってあとに楽しみを残させる気持がある。 中国人に愛想を尽かしたり、中国に悲観的の考を挿んだりすることは日本人としてあり得べからざることである。

 吾人は中国人の一部のものが自覚した顔で騒ぎをして見たところで之によって真に外人を憎んでいるとは思わない。 外人を拒んでいるのでもない。 利害の衝突したり中国人を無視したことをやるものがあれば之を苦しめようとするに過ぎぬのである。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

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2013年4月 7日 (日)

雪中月牙池雅宴の好印象<中国を愛す>

 紹興旅館は『仕官行䑓』と自ら大官御用宿を以って任じ、気位高くきめ込んでいる位だから、体裁、設備、部屋、客庁、番頭、夥計(ボーイ)すべて気がきいていることは無論だし、そのシステムも悪くない。

 田舎城内の宿としては指折りに数えても少しも恥ずかしくない。 部屋は広い二人部屋であって、寝台、卓、椅子も結構であり、電燈も明るいのが點いている、客庁には大きい置時計、壁に對聯、鐡畫の四君子、蘭、菊、梅、竹。 左右に十景椅子、中央には仙菓と到れり盡せりである。 

 而かも房金、小賑、被褥、電燈、茶房すっかりで『貴衆同伴貮位住貮天』と、つまり張君の分をこめふたり二日で、たった洋貮元捌角四分、これは銀のターヤン大洋二元四角だから日本金の三円そこそこにしかあたらぬ。 もとより料理は別であるが、兎も角中国の田舎宿ではこの辺が上乗の部である。

 しかし中国宿につきものの羈旅の感とか商女は不知、亡国の恨といった様な哀れっぽい情緒のここに見出だされないせいでもあるが、どういう訳か余りきちんとした仕官行䑓は田舎らしき風情を味わう上から少々物足りなく思われたのであった。

 けれども蘭亭帰りのその日は幸いに張君の友人の既に留守中から来て待っているのがあり、その君が即吟七絶の詩を草して見せるとか城内の有志がたずねて見えるとかで親しみの気分は旅社にみなぎり相当面白くまた忙しくもあった。 

 そこへ以前船中で懇意になっていた青年平徳福というが先約によって車で迎えに見えた。

 平先生

 「小盧は紹興城内は月牙池であるが今宵うちの老父が心ばかりの小宴を開き御一緒に趣味文字談を語りたいといっているから是非今からどうぞ」

 「実は正式に紅紙の招待状を何する筈でしたけれども何分急な思い立ちのことで・・・・・」

 と心持ちのよく読めた好意に張君同伴、からだを任せて月牙池へと案内される。

 ところが城内運河、大小水路の縦横無尽、それに架せられた旗橋のおおいこと、おおいこと。 ものの一二町も舗石の狭い路を曳かれていったかと思うと降ろされる、降ろされたかと思うとまた乗せられる。 石の段々を高く上がって行くのでとても車が曳けないのである。 

 運河からいえば舟行に便ずるためアーチの旗橋にしなくてはならず、路行く人からいえば不便厄介はこの上もない。 南方中国はそれだから小舟で動くに限ると胸のうちでは切にそう思っていた。 或いはまた轎子かなどとも考えていたが、平君の手前理窟を今列べる時でもない。

 壁高く聳えたる門扉を入り部屋にいきなり通される。 家廟に祀る祖先ふたりの紅衣と黒衣の肖像が大幅にして正面に高く掲げられている。 色々の供え物に貢燭花屏などいうも更なり、づつと上には墓表の拓本まで神々しく寶蔵されている。

 やがて厳父、母堂お揃いで席に見えられ、徳福君を間に入れてねんごろなる挨拶のあった後、紹興の古老として追旧談やら古書畫に関する趣味談があり、近代人の畫幅三四十點の展覧さえ催され、水墨を特に愛賞せらるる風流韻事の閑話など殆ど尽くる所なく、そのうちに湖筆徽墨臨池の餘技も始まった。

 興に乗じ翁の趣味に感じ今では何をものしたか覚えてもいないが、兎も角その日ひるは蘭亭曲水の清游に浸り、宵はこの清宴を名前も懐かしい月牙池の鶴荘に催されたこととて『奈斯良夜何』と計り古篆か何かでその快感印象の或部分をせめてもの記念にとて蘭亭のほとりに紹興月牙池にわが恥を残しておいた次第である。

 田舎の昔ながらの中国住宅のこととて、部屋には別に暖房の設備などはない。 家人何づれもただその羊毛の筒袖の長きを拱手しているだけで、それで何等冷を覚えることもないらしい。 これは北京、北中国方面も江南のこのほとりも変りはないのであるが、自分はどこにいってもいつも脚爐をもとめて僅かにこれで凌ぐ習いである。 この日の寒さにも之を求めていたのであるが、老爺の君のその脚爐一つだに必要としていないらしかったのは啻に油っこい料理からくる勢力ばかりでもあるまいと思われたのであった。

 異境に翰墨の清談に耽っているといつ尽きるとも、時を知らない。 そのうちに夜もふけ、月牙池の戸外墻界、雪は紛々紹興城内橋上白皚々裡に埋められた景趣の中をおくられて宿に帰って来た時は、さすが仕官行䑓の門前街頭家もすべてこれ銀號をつらねたるかの如く電燈に照らされて誠に美観を呈していたのであった。

 かくて紹興の情緒はその蘭亭行といい、また月牙池の雪中脚爐の印象といい、過ぎにし春の清游の思い出はなつかしさにたえられないところがある。 今も尚平先生との消息は絶えないのである。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

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2013年4月 2日 (火)

蘭亭に游びて曲水の今昔を比較す<中国を愛す>

 蘭亭の位置は、王羲之の風格を追懐せしむるに最もふさわしい浙江の田舎、閑雅幽邃の山峡にある。 

 之れをかの柳先生陶淵明の廬山柴桑里、酔石の 閑雅幽邃なるに比べると其趣がやや異なっている。 柴桑里には陶氏の子孫と称する小盧が二軒ありて互に総本家を争っているらしい。 が兎も角も子孫はいる。 その酔石の景趣、刻文、また渓谷より仰ぎ見らるる小瀑布の小音、すべてこれ隠者的で山月の風格をば十分に偲ばせている。 

 之に反して蘭亭の方は此に王氏の子孫こそ居ないが、山陰の峰は廬山ほど高くもなく山峡も相当に濶く、其の地勢と云い規模と云い王右軍の清遊の境地としては恰好の所といい得る。 

 蘭亭の境内は例の渓流を渉り緑陰を右に見て、正面に進めば『蘭亭』と正楷の大筆金文字の扁額を掲げられたる楼門がある。 見るからに雅趣に富みたる古代建築のスタイルに出来ている。 門を入り左に折れて梅林の間を行くこと数町『鵞池』の草書の刻碑がある。 碑亭のうちに納められてあるのであるが、手拓の跡甚だしく殆ど漆黒剥落せる所も見えていた。

 碑亭の奥梅林庭園の正面には寶亭がある。 乾隆帝勅額の御書『流觴亭』と云うが鮮やかに仰ぎ誦せられ又亭内高く『曲水趣歓處』と五大文字の扁額が光って見えている。 左右の柱楹は気高く之に長聯の懸かりて奥ゆかしく、その光彩を添えているものがある。 聯に曰く

 寄倣林邸三春陶和気。     散懐山水千歳挹遺芳。

とその右軍の遺芳を偲ばせている所に盡きぬ千古の余韻が認められていた。 寶亭の飛檐は甚だしき反を空に示して静寂の悲境に一段の清香気分を漲らせているが、更にその向って右方曲水の流れに接して楼閣の飛亭が聳えている。 境内建築美の呼物となっているものである。 先に渓流を隔てて緑陰の影からその飛亭の屋根の先端が認められたのはこの楼閣であったのである。 

 曲水の水はこの飛亭の後方山陰の北麓より匯流し来たり、劃然直截極めて深く作り成せる溝渠を縁一パイに流れ今もその溢れん計りに勢いよく湛走って更に又右へ折れている。 その色紺碧。 洵に豊富、潤沢、清洌の情緒を起こさせている。

 石橋を隔てて右方は更に二梁の堂宇破風を接して曲水のヘリを劃し並んで居るものもあった。 かくして境内竹林、梅林の陰には六、七宇の楼閣樹亭を数えることが出来た。 固よりこれとても晋代千有餘年前の当時の俤をどの程度迄伝えているかはよく判らぬが、何れにしても其の曲水の路は山陰渓流のS字形に匯流せる自然の水勢を利用していたらしいこと丈は今も明らかに推測せられるのである。 朝鮮の慶州の鮑石亭の遺跡の如き、もと山陰蘭亭の故智に倣ったものであることは人のよく知れる所であるが、斯くの如きものを以ってしては殆ど此の曲水の片影にだも似かよった所を見出すことの出来ないことを知ったのである。

 次にその流觴賦詩の清遊の場面に就て考えて見るに、自分の実地に親しく見た曲水の流勢からすると、羲之の催しをやった時代は水勢が今少しく徐々に緩やかであったものではあるまいか。 と云うのは、当時境内の水面を流れ来たれる幾多の酒盃がそれぞれ群賢の席の前に餘りにあわただしく速く到着し来たっては吟詠の暇も何もあったものでない。 罰盃又罰盃と続けさまにやられたにちがいない。 

 今日の曲水の流れは誇張して云うと四川三峡の水勢のそれの如く快速力になっている。 これでは電光石火の如く詩が口を衝いて出たとしても詩箋に認める暇もどうする間もないだろう。 殊に文人のあの執筆、運筆の構えから想像して見ても、こは日本の芝居で三くだり半など立って居てスラスラ一気呵成にやってのけるあの式には参らなかったであろうと考えられるからである。

 曲水のスピードの研究理窟を足るほど列べて、それが済むと後庭林間の緑陰を探り山陰の麓、山畝の間にささやかな小隠を訪ねて見た。 百姓のかみさんが針仕事をしている所であった。 張君先ず口を切り暖が取りたいの茶を請いたいのと思う心のままを云う。 そばにはふたりの女の児のいるのも見えていた。

 が、優しいかみさんと見えて「さあどうぞ」と却々愛想もよろしい。 話のうちに「子供さんの名前は」と軽くやって見ると、上のが沈秀英(十一歳)小さいのが沈桂英(七歳)と云う、かみさん流石に字もよく知っていて文字の即答も出来た。 いかにも蘭亭山陰の農家だけあるわいと珍しく思った。

 上のが十一歳ならうちの文子と同じだなど、たわいもない話を続ける。 小さいのに向かって持ち合わせた甘い物、紙包のまま張君から与えようとするに、桂英はにかんで母の膝もとに行って了う。 可愛い唐子のようである。 姉の秀英は一パシ早や豆がらで炉に湯でも沸かしてくれたらしい。 ゾオ、ゾオと茶の方言訛りを発音していたのであるが熱いところを出してくれる。 煙い薄暗い蘭亭の農家でこうして自分共は心あたたかいお茶を頂いたのである。 

 小さいのもそのうち狎れて来て一緒に甘味の一つも摘むようになり母子諸共五人、気のおけない間柄の団欒で炉を囲み、蘭亭年中行事の事から遊歴家のことや正面は石橋の流れであるのでどうも危ない芸当で、又渉らなくちゃ帰れないなど色々の物語りに暫し耽っているうち、こちらの体も大分暖まって来た。 

 張君は「行こうか」と云い出す。 子供の狎れて来る時分には行かなくてはならず名残惜しくも思われたのであった。 かくて挨拶をすませ梅林の間まで見送られて別れた。 飛亭をあとに再び驢夫の背にすがり水を渉りて馬上帰路に就いた。

 楼公の田舎飯屋で年糕油菜湯と老酒に再び暖を取り、船頭の待ちくたびれて寝ている所を可哀想であったが呼び起こし、これも中飯は夙くに済んだと云うので、それでは帰りの舟行は南へ十中里迂回だと例の夏の禹王の臨終地と伝うる禹皇殿(地名)に寄航大禹廟を拝し又穴の穿いた妙に滑べっこい大孔石を撫で謂れを聞きなどした。

 かくて一日の史蹟めぐりに幽情を暢敍し得て紹興東郭門をくぐり、薄暮五點鐘と云うに紹興旅館の仕官行䑓に帰りついたのであった。

(後藤朝太郎著「支那游記]<昭和二年発行>より)

 

 

 

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2013年3月27日 (水)

浙江省錦江江畔茶亭の情緒<中国を愛す>

 寧波に遊歴を試みんとするものはなるたけ中国式に田舎の情緒を味わいつつ行くに越したことはない。 上海から一夜で三千トン級の汽船でいってしまうのは余りに没趣味である。 特にそれでは文化的研究の目的にも叶わない。 

 その銭塘江を渡り、運河の水路をたよりに蕭山、紹興、曹娥と来たものは必ずや百官の駅にくる。 百官から寧波へは一空、火車で二時間半で行かれるのである。

 さてその曹娥を出て百官に至る間には錦江の義渡がある。 錦江江畔には幾多の中国情緒の漲っている貴い材料がころがっている。 遊歴客はそれを親しく経験することが出来て、それが又中国らしい中国を味わう一助ともなるのである。

 自分は友人の張君を花潭村にたづねるべく曹娥の宿で前晩から轎子を頼んであったので、かれらは朝早くから第一号室の戸のそとに押しかけて待っている。 すっかり支度が出来て愈々轎子に乗ろうとする前、よくあることだから轎班だちに念の為。

「君等は花潭村の路はよく心得ているのか」と駄目をおして見たら一句同音に、

「曉得、曉得、明明白白」と如何にも心得たようにいう。 

 これは百官駅を知っているというだけの心でこちらの壺には少しも嵌っていなかった。 それはあとで判明した。 当てになると思い込んだのが間違いのたねである。

 しかし早朝宿を出て、山下河沿いの平野を行くこと三四里<中国里>、窓外の青々した眺めはよい。 年年歳歳相似たる山水の風光ながらもなつかしい。 

 錦江を義渡の船で渡る。 朝風は寒く身に浸む。 渡船は屋形船である。 七八人の乗合いもある。 船の左右の聯にはうまい佳句をかかげている。

     波平両岸潤。    風順一帆懸。 

 船頭の心にも風流を解している如く読まれたのである。

 それはさておき、轎班をあてにしていて要領を得なかった張君のことは百官の朱象賢という人の話しで最近帰杭して不在であることが明白となった。 自分はそこで正午の火車を待つ為それまで三時間余り錦江江畔の錦江春という茶亭で休むことにした。 錦江春とは名は美しいが竹の柱に茅の屋根式の極めて瀟洒というよりは掘立式のものである。

 気の利いた七八歳の女の児に梅干式の老婆と二人だけで、竈を焚き始めたり湯を沸かしたりして自分に茶を請ずる。 山の中腹だけに見晴らしがきき、錦江の流れに曹娥の野、遠山近峰新緑の装を見せ、義渡の船のあまた碇をおろして帆檣林立しているところなど一幅のよいパノラマである。

 後方の山に桃杏の花の見えたるあたりをあるく。 工程重地。 間人莫入。 とある。 役人でもいるところらしい。 茶亭に帰り娘の入れてくれた茶を喫む。 柱を見ると、

     勤筆免思。 以免争論。

 とある。 茶を喫みに来た客の時々騒ぎでもはじめるために戒めた語か、何だか意味あり気に読めた。 

 やがて卓によりて窓外錦江江畔義渡の去来、船人の往き来、里人の水汲み、紙の荷物の運搬、雑貨の集散、何くれとなく行人の活動するパノラマを見ていた所が江岸の全線に亙りひどく憐れそうな豚の鳴きさけぶ声がしきりと耳を刺すように聞こえる。 老婆にあれはどういうのだろうと大抵わかってはいるが念の為聞きただして見た。 老婆は、

「今、豚船が来ているから豚の積み込みがはじまったのですよ。 行って御覧になられたらどうです」

 と云う。 いって見るといかにも他の地方でやるとおなじくその四肢を十分に硬く縛り合わせてその一匹づつ悲鳴をあげているままを苦力どもが肩にかついで陸から運んでいっては船底へポンと投げるように落として行くのである。 幾十、幾百投げ込むかわからぬ。 

 この豚は縛られる間、かついで運ばれる間、投げ込まれたときは、随分苦しそうに哀を乞うて悲鳴しているが、底に納まると括られたまゝ黙しておとなしくなってしまう。 孟子が牛を見て惻隠の心を起こしたというが度々見ないうちはそうでもあったろう。 しかし自分だちの如くこうたびたび各地でそれを見せつけられていると麻痺したかたちで全く左程には思わなくなる。 ましてこれを運んでいる苦力人足たちには一種の音楽にでも聞こえているであろう。

 物も見よう一つで高い錦江春の茶亭から大観しているときは人足だちのエーホー、エーホーの掛け声とおなじ意味において豚の鳴叫も何だか全体として中国らしい濁った錦江の流水や船着きの景色や村民の物事に少しも頓着しない活きぶりなどによくハーモナイズしているようにも感ずるのである。

 それもその筈、美しく着かざっている姉妹らしい丸顔の女がふたりして、一本の天秤棒をかついで来て、水汀にヨチヨチ降ったと見ると桶に一パイその濁水を汲み込んで陽気そうに二人でまた休み休み坂を上って運んで帰る所が目についた。 これを飲料水にしていることは錦江春の婆々もあの美人だちも皆おなじことであるのである。

(後藤朝太郎著「支那游記]<昭和二年発行>より)

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2013年3月24日 (日)

浙東第一旅館の一夜及び紹興城外和平の景趣<中国を愛す>

 中国の田舎の宿屋ぐらいその地方のローカル・カラーの溢れている所はない。 中国文化の現代的視察にはこの田舎の旅館を重く見る必要がある。 自分はこの田舎の宿屋に深い文化趣味を感じている。

 この地方では宿屋のことをなまってカザンという。 宿屋のことを聞けば土民は客桟有的と答える。 客桟はカザンと発音し土地の通り言葉である。 自分は今その客桟に身をおいている。 ひろい蕭山の田舎の町に日本人は自分ひとりである。 宿の老班(番頭)に向かってこれまで日本人がこの辺に来たという話しでも耳にしたことがあるかと聞いて見たが、聞いたことはないとのことであった。

 道理で大層物めづらしげに、あたりの村民や子供たちが夕ぐれの第一楼の中庭に集まってくる。 セッペンニン(日本人)来了という声はあちこちから聞こえる。 動物園の庭にめずらしいカンガールでも来たという格好である。 珍客扱いは結構だが何分大変である。 

 隣室第二号の客は気のきいた青年で眼鏡越しに上海の新聞申報を手にしながら中庭の籐椅子に寝そべっている。 自分の挨拶に答えては浙江の田舎の話しなど糕柄にする。

 話し半で自分は番頭に晩餐の品目を書いて命じておく。 一、青豆蝦丸、二、糕油菜湯、三、炒鶏絲或鶏蛋、四、老酒(五個銅片)、五、花生。 幾らも時のたたぬうちにボーイは吃飯といってきて中庭の正面、客庁の八仙卓上に支度が出来ている。 青年は食事を済ませたので宿の老班どもを話し相手に晩飯をとる。

 食後散歩して見たいと思って一筋町の賑やかな地域、見晴らしのきく拱橋、寺廟の所在などを聞く。 老酒の燗が甚だよく出来ているので酒のことを老班に聞いて見ると、老班は

「これは老酒の本場紹興酒の陳酒だからものが特別によい。 紹興はこのすぐ先の町だ。」と説明する。 当然としてよい気持になって、一応第一号の自分の室にかえる。

 扉を這入って右の方に清潔な寝台、夏冬通しの白い金巾の蚊帳がかかっている中国更紗の薄い綿布(布団)が細長くたたんである。 やわらかく低い枕もある。 ベットの下には青磁焼きの便壺がおかれ、正面の壁には扁額の山水や佳句がかかげられてある。 窓の下には小卓、椅子、脚、これにランプこれだけで全部である。

 室の広さは四畳半もない位であるがいかにも小じんまりして便利に設備された部屋である。 手さげと例の蝙蝠をこれにおいたきり、別段戸締をする必要もなく、運動かたがた町を見てくると計り中庭にたわいもなく集まれる連中の中からソット抜けて出る。

 中国の新しい文化はこの田舎町にもしみ込んでいる。 左方一二町いったところに照像(写真)屋がある。 上海のバンドの古い引のばしを後生大事とかかげている。 その浦東を取り入れた取り方が気に入ったから暫く見つめていて、そして譲らないかというとジロジロ見ながら不売と答える。 見れば此店は歯医者の店を兼ねている。 金歯を嵌めるとすぐその場で撮影しようといった当世流行の空気がここにも入り込んでいるのである。 

 又相当ハイカラ店も出来かかっている。 唐物店に立寄って見た。 日水壺というものを天井から沢山ぶら下げている。 中国図案の老子の絵など描かれているが紐の具合が日本人らしい。 鄭君の坊ちゃんの土産にと思って求めて見た。 日本で魔法瓶という名が中国ではニスイフといっているのだ。

 町は四五町で尽きる。 折れ曲がって石の拱橋の高い所に上って先に来た運河の水路を見渡して見る。 鰹節型の細長い円い屋根の民船の去来は相変わらず繁々しい。 漕ぐ艪の先の水をかきわけている風情も何となくゆかしい。

 宿に帰り大客庁に茶を請ぜられていると、どこから寄ってくるかまたまた百姓の子供たちが八仙卓のまわりに集まってくる。 申報の絵の話しのたねに種々の地方的の質問を発していると、村の若い衆どもがよろこんでその問に応ずる少しもはにかまない。 四つ手網の名前から今ごろ網にかかる魚の名は何かなど聞く段になると得意げに語る。 落花生でもむきながら、こうした田舎の情緒を異国の旅の空で味わっている時は天下泰平である。 上海に紡績罷工が起ころうが、青島に飛び火しようがこの田舎の団欒的情味というものはまことになつかしい。

 浙江の田舎の中国宿はたびたび経験しているが蕭山の旅館に泊まったのはこの日が初めてであった。 終日出来事が多かったのでつかれも甚だしく、旅枕夢一つ見るひまもなく深く徹底的にねむることが出来た。 人はよく中国宿には南京虫がつき物で閉口だなどと食わずぎらいをするが一向にそのような者にも見舞われず、そのためむしろ少々物足りなく思われた位であった。 今少しくだらしのない客桟にとまったらその情緒が味わわれたかも知れぬ。

 それは兎に角として翌朝は早く十時半ごろ開船するというから朝飯がすむとすぐ船出の前に、近所の髪床にでもいってさっぱりして来たいと思った。 宿で床屋のことを北京語の剃頭的といってもよくわからぬ。 むしろ理髪店といった方が分りが速い位にこの辺は新文化に馴染んでいることを知った。 さてその理髪店にいって見るとただガラッとしていて壁の鏡と相対して椅子が置いてあるだけである。 床屋は皆小鞄を持って通いでくる。 感心に朝の九時ごろであったが既に三四人店に来て客を待っていた。 

 自分は別段に洒落る柄でもないし、さらばといって前方を藪の如くモジャモジャ当世流にやるのも好まず、またヤング・チャイニーズの時代にオール・バックも好まぬ。

  矢張りガリガリがよいからとて寸法をよく説明すると心得たりとばかり小鞄からバリカンを出して早速毛を二三度もんで刈り始めた。 曽て北京で刈られていた間居眠りをしていて中国流に丸く剃り上げられてその晩公の宴会の席で皆から早く写真を取っておけなどとひやかされたこともある。 それ以来中国の髪床では神経をとがらしていたのであるが、こたびは無難にあつらえ向きに出来た。 耳も髪も皆済んだ。

 いくらかといったら実におどろくなかれ郵船賀茂丸船内バーバーの時の十分の一以下で小洋の十四銭だという。 文明の風の吹いている地方ではバリカンさえ使えばすぐ一円五十銭をとるのが普通である事実と対比して実に意外の感が深い。

 宿に帰って見ると船が来ている。 先刻から先生を待っていたという。 見れば民船は殆ど満員の形であった。 切符の票も出来ていたので「これは済まぬ」とそこそこに早く飛び乗った。 客は例によって田舎の百姓どもやこぎれいなかみさんだち、子供を連れた番頭らしいのなどである。

 運河の両岸の眺めは裏壁つづきで先般来見て来たところの延長みたようなものの別段とりたてていう程のこともない。 やがて蕭山城外に出るとそこの転壩というという所で小蒸気輪船に乗換えるのである。 そこの碼頭で皆おろされ二三時間待たされている間に自分は色々面白い城外の情緒を味わうことが出来た。

 その第一は実に美しい五彩の青雀舫と称せらるる美術的の民船である。 盛んな仏事の施餓鬼をやりながら鳴り物入りで波上静かに流して来る景趣が見える。 新緑の楊樹と菜種の花の両岸をバックに、その合唱する題目の悠長さ加減といったらまたとない。 春の日永に土民どもと一緒に橋の縁にもたれ暢気に打ちながめているとその苫のうちから打ち鳴らす鐘の音も清らかにその善男善女の香を焚いている趣きはやさしくて何ともいえず、春の水に調和しているように見られた。 

 そして、その一パイを見送って、かすかにそれが見えなくなるころ、またもや次ぎの江上に清香の趣きをたたえつつおもむろにやってくる。 実に何というめずらしい田舎の詩的な眺めであろう。 南京秦淮の画舫は夜趣においてその名を得ているものであるが、この青雀舫は昼の呼びものとして天下にあまねく知らせたいものである。

 第二には鵜飼いの船の江上橋下を去来する景色である。 一つの船に三四十羽の鵜を使い、、その運河の水深くもぐっていったかと思うと、やがて意外の水面に姿を現わしバタバタとふなばた目がけて飛んでくる。 そして時々さかなをはかせるのであるが、その一本の竿でよくもかかる多数の鵜の群を追いあしらっているかと思うと実によく手なづけたものである。 

 高い拱橋の上からながめているとその鵜飼い船のかすかに見えなくなるまで羽ばたきしたり、水上にあそんだりしているその景趣が春の水郷ののんびりした気分を一層引きのばしてくれるように思われた。

 第三には橋のたもとにどこからともなくもれ聞ゆる児童の読書の吚唔の声の賑やかなことである。 昔は庠序に吚唔の声を聞いたなどというと司馬温公などの幼年時代を連想するのであるが今の田舎は宋代の延長として見てもよし、隋唐の世に見ても差し支えない。 声の聞こえる方角にひかされていって見たら、寺のよこ手の家で小窓のうちに児女の二三十人もが一人の村夫子先生に教わっているのであった。 

 ちょっと這入って参観しようとするとドンドン皆にげ出した。 怖れなくともよいといったら引きかえして来たものもあった。 三字経や孟子色々のものを、節をつけて音読させている。 寺子屋そっくりの光景である。 橋のうしろにまわり道教の寺へも這入って見た。 「聖神文武」の四文字が金ピカで扁額にかかげられている。 わきに四天王のからだを前にななめにしている立像や紅燭の余燼なども見えていた。 ここは民船の船頭連中の信仰をつないでいる寺らしく拝せられた。 

 なおこのあたりの民屋農家の住まいの破風には多く「福」の字が一字筆黒々と大書してある。 土地の趣味がこの福の一字によく無邪気に現わされている。 こうした田舎の情趣景趣にひたっているうちに紹興曹娥行きの輪船が程近く来る時刻になった。

 

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

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2013年3月13日 (水)

銭塘の煙波江上老農の道連れ<中国を愛す>

 宋代の建立にかかる杭州西湖の呼びもの、雷峰塔の塔影は民国十三年九月二十五日の正午をかぎりとしてとこしえに崩壊した。 折りも折り盧永祥対斉燓元、孫傳芳の戦争の真最中脆くも崩壊の運命にあったものと見えて偶然にも崩れ落ちたのである。

 湖上扁舟に掉す雅客風人の心は三潭印月の左方幽かにこの遺塔遠影のためにどれ位引かされていたことか判らぬが、最早永久に雷峰塔の俤は見られなくなった。 日客の西湖観光もこの古塔の情趣によって清遊の心を深刻にそそられていたのであるが、今となっては唯その対岸の空に、高く細く尖れる保叔塔の孤影を寂しく打ちながむるの外はない。 ありし昔の歴史を物語る遺跡遺物はかくの如くにして現実の中国から夢の如くほろびゆくのである。

 江蘇浙江幾百里と打ちつづく春の菜たねの花に色どられた平野の真ん中を行く間にも時折りかかる雷峰塔を弔う気分おさえ難く、葛嶺、天竺、呉山の諸峰をあとに浙江閘口の手前、南星橋まで火車で来た。 候潮の題字あざやかなる杭州城門を外に出ると車站につく。  銭塘江の義渡はここにある。

 銭塘江岸は汀から四五町も遠浅がつづいているので厚板を渡したせまい仮橋の上をゆられながら足許徐々に一人々々渡って行くのである。 すると義渡の渡船が二三十艘も軸艪相銜んで江心に並んでいる。 向うの対岸、遠きあなたから黒煙を天にあげた小蒸気が先になって二三ばいをあとに曳いて来るのが見える。

 自分は早くもこちらでこの曳かれる民船の窓ぎわ近く見透しのきく所に座を占めて、船頭遥かに銭塘の濁流を悠々と去来する民船の景趣や、右岸遠く仰ぎ見らるる呉山の景観に六和塔の雄景など雲煙裏に打ちながめ十年以来思い出多きこの地方の山水風物に恍惚として見とれていた。

 そのうち、やがて船は満員となり小蒸気の汽笛を合図におもむろに小仮桟橋から離れて江心へと出た。 漫々たる煙波江上、順風暖かに面を吹いて両岸の潤色は深きを加え、いかにもよく浙江気分を現わしている江水は古の呉の国を東へ流れているのであるが、南越に渡る行客もまじっている。 全く文字通りの呉越同舟とはこれであると思って不図乗り合いの面々の風貌を見渡して見る。

 見渡したところ二三十人の同舟者は農夫らしいものが多かった。 自分と膝を差し向かいの目尻のさがった老農を相手に自分はその娘の子の衣装の色や装飾のことなどの話に余念がなかった。 呉越同舟のお蔭で自分は子供の話から老農と十年の知己のように懇意となり、銭塘の対岸に渡船が着いてからも老農は旅行者としての自分を大層いたわってくれた。 途中いろいろの話をしながら春風駘蕩の田舎道を茶亭から茶亭への、行き来の繁き光景の中に同行するわれわれ二人もいつか画中の人となってしまう。

 元来この道は自分が昨年も二度あるいた田舎街道で、勝手も路程もよく分っている。 昨年は沈君という田舎青年を道づれにしたが、今年はまた老農の好伴侶を獲たわけだ。 古老だけに土俗の話を聞くには持ってこいである。 その途中で出くわす里人村翁との挨拶振りに手籠の中の買物の値段の問答までが罪のない大道農夫の談柄として面白い。 別段いそぐ旅ではなし翁の浙江鴃舌の方言が聞きとれぬ時は空の雲雀の囀る音でも賞していればよいので義渡の船が縁で誠によいつれを得たわけであった。

 浙江銭塘江以南の水路運河は西星を基点としてあらゆる方面へ細かく通じている。 自分は東方寧波方面に再遊を試みるのであるから会稽山の東、紹興、曹娥に水路を取ればよろしい。 

 道づれになった老農は、自分の孫の面倒でも見るように、その運河の河畔にたたずみ或いは漕ぎ来たる小舟の方を見たり路上の行人に話しかけたりして水陸両方面の気のくばりかた一と通りではなかった。

 やがて同じ年恰好の丸顔の百姓のかみさんらしいのが二人、手ごろの小さい行李を人夫に担がせ、足は小さく蓮歩ヨチヨチではあるが陽気そうな話しぶりでこちらに通りかかるのを見た。 老農は一つ話しかけて見ましょうと、いうが速いか。

「あなたさん達は蕭山の方へ下らるるのとちがいますか。」

 すると、かみさんだち碑楼の壁の前に立ちどまり、心易げな愛嬌を見せて、答えるに、

「そうですよ、蕭山の田舎へ下ります。」

「デハ、一つわれわれも同じ方に行くのだが四人で舟ではいかがでしょう、日本から遊歴客もここにいられますので。」

 とありのままにいう。 話は快くまとまったのでこんどは舟だ。 いくつとなく運河を続いて下る小舟との談判である。 いくら話しかけても来る舟、来る舟、何づれも皆約束済みか又は違った外の方へ向う舟ばかりである。  丁度よい手頃の小舟が来たと思うとそれは人のハウスボートであって勝手にはまいらぬ舟である。 

 根気よくも老爺は岸から例の黄色い声して舟さえ見れば言葉をかけ船頭と問答をしていたが、遂にうまく一艘を呼びあてた。 そして談判大いにつとめてくれて、結局のところ、蕭山まで五里路を四十銭で行こうということに話しがきまった。 中国では各地に洋人価格といってよく外人には倍に吹きかける習慣があるが、このような田舎では外人を殆ど見たこともない。 従って総ていう通りになっていても間ちがいはない。

 百姓のかみさん達は荷物かつぎの人夫と手を切ってこちらの仲間になり「お先に」とばかり岸の石を押さえ足もと軽く岸から小舟に飛び乗った。 つづいてわれわれ二人も靴をぬぎせまい船内に入り苫の下に足をのばし楽々と座を占めたところが四人で一パイになった。

 二人づつさし向かいであるから、とかく傾きやすい舟であるが、船底は水平をたもち、船頭の艪の音やさしく或いは古色蒼然たる石橋の下、または両岸楊柳の間、民家の櫛比せる裏壁の広告文字の下などを漕いで行く。 船内では尻あがりの浙江なまりで、いかにも百姓らしい田舎のまつりの話しに買い物などの話しが始まる。

 城外に出ると運河の両岸一時にパッと開き天空開豁のあかるみをあびた乾隆道光あたりの碑楼の列が高く眺められる岸の叢、清い水汀のあたりから小鳥が二三飛び出し楊樹の陰に消えて行く。 行きちがう運河の船の客には百姓らしくない相当の身なりのものも見当たる。 自家用の船ででもあるか彩色を施した美しいのが橋のたもとに静かに泛んでいる。 実に平和な江上の景趣で日本の画家にも見せたい佳郷である

こうした平和な水郷の情趣に浸りつつ楊樹の新緑の下を漕ぎ行くこと一時間余。 再び舟は城内らしきにぎやかな運河に奥深く漕ぎ入った。 例の裏壁高く両岸にそびえ宏壮な白亜の大壁に窓一つなくこれに「當」の字たった一字だけが十二三尺の輪郭に書かれている。 金持ちの質屋の看板とうなづかれる。

 また「山珍海味」の大字の黒書、これは乾物屋と読まれる。 裏口の石段水際におりて洗い物せる家人のうちの壁にはこれも大字にて「染坊」とある。 染物悉皆屋たることがわかる。 また手斧の音するうちに「水木両作」とあるこれは大工左官兼業の店である。 これで見るとかなりな町であらねばならぬ。 昨春城内の陸の方から見ていた蕭山の城内はこれだ。

 さすがこの辺での大きな町であると思って見ているうち巍巍乎といっては誇張過ぎるが右方に当たってかなり高い白亜の壁に楷書で「浙江第一旅館」と読まれた所に我が舟は横着けされた。 老農は到了という。 

 それではと船頭に勘定しようとしてもどうしてもさせない。 三人はまだ先が遠い。 さき長く乗るのだから決して御心配などは・・・・・と二人のかみさんまでが一生懸命。 そして一路平安をと心から祈ってくれて石段に上って見送ろうとする。 その小さい足に対しても恐れ入る訳である。

 一時同船しただけでさえこれ程の縁だ、況して銭塘以来舟に陸に行を共にした老農は盡きぬ名残とてわざわざその老躯をひっさげて石段を上り旅館の賑房のところまで自分を案内し且ねんごろに番頭や館主に自分を紹介してここは浙江第一の旅館なればと第一室に室を取り極めたところまで見届け別れを告げていった。 この美しい純樸の印象は永久に自分の頭から去らないことであろう。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

 

 

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2013年3月10日 (日)

旧時中国における兵隊と戦争の実相<中国を愛す>

 中国の世相に見る動乱騒ぎといえば、全く民国の名物の一つのようにも、見られているほどであるが、然し中国の兵隊そのものは、一人として国家から徴せられているものではなく、いづれも皆傭兵として雇われているもののみである。 いわば一種の被傭人で、その兵隊募集の掲示を見つけて、これに駆けつけ応募した人間に過ぎないのである。

 その田舎の農村、運河の船着き場あたりで、ごろごろしていたりするよりか、兵隊にでも応募して隊にはいっている方が、何ぼか懐の都合もよいと思っている者、又は失業者で困っている手合いどもが駅前とか、城門とかに掲げられた広告を見て、その文字こそは読めないにしても、近所の朋友が兵隊に応募するのを聞き、又それに死ぬるときまっている訳でもないから、自分もまず遊んでいるよりかよかろう位のところで、馳せ参じてきたものである。

 まず大抵はこの辺が本当の兵隊になる始めの動機なのである。 決して国家のためとか、君のためにとか、又軍備拡張のためにとかいう八釜しい考えからなっているのではない。 かかるものは一人もないといって差支えないのである。 

 募集する方のものの考えにしたところで、まず本部で人夫でも募るようなつもりで、月給六ドル、戦時手当五割、年齢十三歳から四十歳まで、希望のものは、至急最寄りの衛門まで届出でらるべし、といったポスターをだすだけのことで、それで十分である。

 万事国家本位でなく、社会本位に出来ている中国のことであるから、兵隊そのものも始めから国防本位の兵隊でなく、それで少しも構わない。 唯その主人公総司令その人の護衛兵たるに過ぎないので沢山である。 しかもそれと同時に、世の貧者失業者の救済せらるるとの目的が達せられているなら、それでよろしいという訳なのである。

 奉直戦争の真っ最中、北京市内城南公園でぶつかった珍無類の一場景。

 ぶらり散歩に出かけた私が、園内の一ベンチに腰かけて休んでいると、これまたぶらりとやって来たのは、鼠色の軍服を無様に纏うた二人の中国兵だ。 此方が中国服姿なものだから、先方では何の気も置かなかったらしい。 いきなり私と背中合わせのベンチに腰を卸して、頗る睦まじそうに話し始めた。

 所で後で気のついた事だが、この二人は、一人は奉天軍の服、又他の一人は直隷軍の服をつけていた。 そうすると彼等は、今正に干戈を交えている敵味方同志の訳だ。 それがこんなにしている所を見ると、大方両人は昔の友達か何かなのだろう。 兎も角も二人の会話が私の耳を打った。

「そいで、お前の方では月に幾ら寄越すんだい?」

「六弗くれるよ。 但し被服は別だぜ」

「へーえ、そいつは莫大にぼろいね。 驚いたなどうも。 俺lンチの方じゃァお前、たった四弗なんだぜ。 おまけに服は各自自弁と来てやがらァ。 嫌lンなったな俺ァ」

「ふーン、そ、それァ酷えや。 だがまァお前、そう悲観したもんでもないよ。 お互いまともでいちゃァ月一弗の稼ぎだって出来やしねえ。 それが斯うしてフラフラしてれァ、兎も角も月、四弗五弗の銭が天降って来るんだからね。 全くお互いにとっては打仗(ターチャン=戦争)様々だよ」

日本でいえば差し向き、会社の下っ端か小使辺りが、茶飲み序に持ち出す給料の愚痴話。 それを今正に打ち物を交えて、命の遣り取りをしてる敵味方同志が、斯くも悠然として語り合って居るのである。 私は思わず微笑させられた。

 全く中国人の戦争に対する概念は、日本人などとは根本的に違っている。 彼等にとっては、戦争は何処までも一つの大きな社会的の芝居か、乃至は劇に仕組まれた筋書ぐらいでしかあり得ないのだ。 むきになっているのは、戦争を起こした中国の当事者だけで、一般国民や平の兵卒は、見物気分でそれに対しているに過ぎないのである。

然らば、戦争に対して「何が中国人をそうさせたか?」 或人は、これを伝統的な中国の国民性に依ると説明する。 悠長気長、一口に云えば、万人に対して呑気極まる彼等の通有性が、然うせしめるのだという。 だが我々は、そういう唯心的な見解を立てる前に、先ず中国国民を包む環境に観察の目を注ぐべきである。

 涯<はて>知れぬ茫大な領域内に、四億に余る民を擁する中国は、日本などと違って、一国民が打って一丸となって事に当たるなどという、真の国家的事件に遭遇した事は殆どなかった。

 「義重萬岳。 死軽鴻毛」とか、「一死以報国」とか、文字の上でこそ、麗々しく唱えられたが、事実国家的にそれが実現された事は、古代は兎もあれ、近世中国では殆ど見当たらない。 戦いといえば常に内乱である。 飽き飽きする程の国内の動乱である。 

 殊に清朝の仆<たお>れて以来、最近の二十年間というものは、各地に割拠した軍閥の巨頭共が、殆どのべつ幕なしに争いを続けたので、中国国民の戦争に対する態度は、「又か」という嫌悪、乃至は対岸の火災視的の無関心となり了ってしまった。 

 そこへ以って来て中国は、元来国民皆兵主義でも、徴兵令の布かれている国でもない。 だから戦争が始まるとなると、一般から募集して兵隊を拵えるのが習いだ。 募集して雇う上は、勿論給料が出なければならぬ筈である。 給料が出るとなると、何処も同じ食えない人種が、きっとゾロゾロ集まって来る。 集まれば集まっただけ、別段試験をするでもなく、一夜づけに編成したのが、即ち中国の兵隊である。 

 云って見れば掻き寄せ乱造の豼貅<ひきゅう>だ。 斯うした連中に対して、戦争に熱を持てというは、言う方が無理な話である。 彼等は唯、食えるから兵隊になったのである。 戦争の有る無しなどは、頭から問題でもない。 手当さえ毎月取れればそれでよいのだ。

 こんな次第であって見れば、現在干戈を交えている敵味方が、のんべんと手を組み合って給料の愚痴を並べる珍場景の現れるのも、蓋し無理からぬ事であり、且又中国の戦争といえば、大方が宣伝戦、誘惑戦、密偵戦であって、死者や負傷者を出す正面の衝突戦に、容易に移らない理由も、瞭然と頷けるであろう。

 要するに中国では、兵隊になるという事は、失職者がパンを得る道であり、戦争という事は失業苦を緩和さす事件なのだ。 所変れば品変るというが、厳粛森厳なるべき戦争沙汰が、社会全局面から見て、立派な社会政策に拠った失業救済事業となっている事は、蓋し中国だけに見られる現象であろう。

さて以上は、一般国民や平の兵卒の戦争に対する態度であるが、今度は、戦を始める当事者たちの戦争観はどうか? 一言にいえば、それは商取引、投機事業以外の何物でもない。 尤もこれは国民一般にも押し擴められる戦争観で、「戦争のどさくさには屹度一儲け出来る]というのは、中国民衆の誰もが持っている考えである。 

 往年張作霖に寝返った郭松齢の首に、二十万元の懸賞がついたなどという事は、その好い例だ。 何処の誰でも構わない。 唯問題の首さえ持って行けば、それで忽ち一攫千金の夢が実現するのだから、「戦争はぼろい」と考える様になるのは、誠に無理もない話だ。 「上の好む所、下これに倣う」というが、中国の戦争程、この言葉に良く当嵌まる例はない。

 元々何の大義名分も翳す事なく、唯投機の一点張りで、当事者達が始めた戦争である。 その下の幕僚達も、頭から戦争など超越して、儲けにさえなれば、どっちへでも寝返りを打つ。 形勢観望、洞ヶ峠は彼等の常套手段だ、だからそこへ暗中飛躍の策士が横行する。 これも同じく我が利の為に動くのは、今更いう迄もない。

 策士が横行すると宣伝と流言飛語が必ず生まれる。 流言飛語が生まれると、本元の当事者の真意は、果たして那辺にあるのか猶更分からなくなる。 一切が混沌、一切がどさくさ。 戦いの火蓋が切られたと思うと、もう既に休戦の条約が交わされているなどという例は、中国の戦争では常任のことなのである。

 それというのが即ち、戦を始める手合が、上から下まで総て、其の戦に依て何程かの得分にありつこうと企んでいるからなのである。

 駆け引き、又駆け引き、その一切が取引的、投機的企みに終始している珍無類な戦争、それこそ中国独特の戦いなのであるが、我々はそれを唯可笑しいと笑う前に、先ず深く「何が中国をしてそうさせたか?」を熟考すべきではあるまいか。

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より)

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