2011年3月 9日 (水)

文章読本さん江

文章読本さん江」(齋藤 美奈子著・筑摩書房・定価1700円)

 「文豪」たちの息の根止める一撃!

 一行目に「名著です。 すごいんです。 でも困るんです」と書いたきり、わたしは金縛りにあったみたいに続きを書けなくなってしまった。 なぜなら・・・・・・その理由は最後。

 『文章読本さん江』は「文章読本」について書かれた本だ。 谷崎潤一郎ら「文豪」の手になる有名「文章読本」たちが、それから、それらの有名「文章読本」たちに倣って出現した多数の「文章読本」たちが、次々と俎上<そじょう>に上がり、齋藤美奈子の鋭い批評力によってばっさばっさと切り捨てられてゆく。 彼女は次のように書いているー

 あらゆる「文章読本」に共通するもの。 それは「名文信仰と駄文差別」だ。 だが、「彼らがあげる『名文』の間に共通点はいっさいない。 『名文』は個別具体的に提示はできても、定義はできないのである」。

 かくして、「文章読本」の著者たちは、恣意的な「名文」(要するに玄人の文章)を頂上とし、「駄文」(素人さんの文章)を底辺とする、階級社会を不断に作りだす。 彼ら(すなわち、「文章読本」の著者+名文の作者)は、この、本質的に「男性社会」である階級社会、における貴族なのだ。

 では、彼らを貴族たらしめている「名文」とはいったい何なのか。 齋藤美奈子は、明治以来百年の日本語の歴史を遡り、次のような結論に達する。

 「文章とは、いってみれば服なのだ・・・・・・ と考えると、なぜ彼らがかくも『正しい文章』や『美しい文章』の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。 衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。 着飾る対象が『思想』だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう?  女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけど、ハハハ、男だっておんなじなのさ」

 この『文章読本さん江』の誕生によって、我が国におけるすべての「文章読本」はその息の根を止められたのである。 この本を無視しなければ「文章読本」を書くことはできず、そして無視すれば、その「文章読本」はなんの意味もない。 なんちゅー罪作りなものを齋藤美奈子は書いたのか。

 ところで、わたしが金縛りにあった理由ですけど、実はわたし、「文章読本」(みたいなものですが)を書いてる最中だったのですよ。 ところがこの本を読んだせいで、中身がすっかり変わってしまったのですね。 本の刊行が遅れたとしたら、そりゃすべて齋藤美奈子のせい!

(H14・4・7 朝日新聞<朝刊>「読書」<作家>高橋源一郎による書評)

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2011年2月 7日 (月)

四十九日のレシピ

新刊書籍のご紹介

「四十九日のレシピ」(伊吹 有喜著・ポプラ社・定価1470円)

 亡くなった妻から、愛する夫へ贈るレシピとは?

 あたりまえに思っていた日常のかけがえのなさに、なくしてはじめて気づく父と娘。 できるならもう一度、会いたい。 そしてありがとうと伝えたいー

 家族を包む温かな奇跡に涙があふれる感動の物語

 明日もその先も、ずっと一緒にいられると思っていた。

★10万部突破!

* NHKドラマ化決定!

  2011年2月15日(火)~ ドラマ10(総合)22:00~

  和久井映見、伊東四朗、風吹ジュン、徳永えり、宅間孝行ほか

(H23・2・6 朝日新聞<朝刊>所載)

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2011年1月24日 (月)

Y氏の妄想録

新刊書のご紹介

「Y氏の妄想録」(梁 石日著・幻冬舎・定価1575円)

 物語の主人公は、37年間勤めた会社を定年退職したY氏。 妻に「部長にもなれなかったくせに」と邪険にされ、再就職を求められる。 ところが、希望する事務職は年齢制限があって門前払い。 息子は怪しい商売に手を染め、娘も家を出る。 希望がない余生。

 Y氏は「おれはおれの暗い深い穴の中に堕ちていく」。 疎外感の中で突き上げてくる憤怒。 過去の罪の記憶、暴力、血の匂い、死の影が絡み合い、Y氏は狂っていく。

 孤独な男の魂の軌跡が、異様な迫力を生み出している。 イニシャルだけの「Y氏」は、作者自身でもあり、私やあなたかもしれない。

(H23・1・23 朝日新聞<朝刊>「読書」所載)

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2011年1月10日 (月)

パリの胃袋 <ゾラ・セレクション>2

「パリの胃袋」 <ゾラ・セレクション>2 (エミール・ゾラ著、朝比奈弘治訳、藤原書店、定価3600円)

 その昔、パリのタバコの代表格ゴーロワを一口吸って、強さに驚いた。 まさに肉食文化のタバコ。

 その「肉食のパリ」が生々しく描かれる。

 十九世紀中葉から百年間、パリのど真ん中に「丸々と膨らんだ腹」を横たえ、美食都市の全食材を賄ってきた「パリの胃袋」こと中央市場は、巨獣さながらの生命活動に忙しい。

 ここでは五感のすべてが沸騰している。 野菜棟ではサラダ菜やレタスが「緑のあらゆる音階を歌いあげ」、魚棟では金色のサバやら銀色のサケやら、海の宝石箱をぶちまけたような色彩の氾濫。 と思うと、チーズの腐臭から血なまぐさい臓物の臭いまで、匂いの饗宴もすさまじい。

 この市場界隈で暮らす人々は獰猛な「太っちょ」ばかり。 「痩せっぽち」を貪り食って肥え太ってゆく。 彼らの敵意に翻弄される主人公は、「太鼓腹のパリ」に食われる犠牲者なのだ。 「体質」作家ゾラの筆さえる弱肉強食のドラマ。     山田登世子(仏文学者)

(H15・5・11 朝日新聞<朝刊>「読書」所載)

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2010年11月28日 (日)

将門様のたたりを思い知れ   神田明神

 神田明神を騒がせた事件が、明治初期にあった。

 明治六年、神社側は、祭神のひとりである平将門を別殿に移し、その代りに少彦名命<すくなひこなのみこと>の分霊を迎え入れたい、との願書を明治政府に提出した。

 朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚ったのである。 翌明治七年、その許可が与えられたが、おさまらないのは百八十八か町にも及ぶ氏子たち。 なにしろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのだから。 どこの誰だかわからない神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。

 そのため、画面に見える本社には、ろくに賽銭も投ぜられないのに対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。 将門に対する信仰は、その後も続き、明治十七年の神田祭が台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂にのぼった。

 「祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。 『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。 『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りImg_4441 Img_4442 をメチャメチャになさった」などという新聞記事が出るくらいであった。

(「百年前の東京絵図」(山本松谷/画・山本駿次朗/編、小学館文庫、定価638円)

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2010年11月27日 (土)

夫の死に救われる妻たち

「夫の死に救われる妻たち」(ジェニファー・エリソン、クリス・マゴニーグル著、木村博江訳・飛鳥新社・定価1680円)

 タイトルはあざといが、原著の副題はとてもおだやかである。 「When Death Brings Relief」。 直訳すれば「死が安らぎをもたらすとき」。

 この「安らぎ」とは、遺された者の胸中に宿る開放感、安堵、自由。 それを恥のように感じて苦しむ複雑な感情に、カウンセリングや看護学の立場から「それでいいのですよ」と救いの手を差しのべる一冊である。

 読みながら、まず思う。 生と死は同義なのだ。 生きるとは、死を受け容れること。 肉親の死、愛する者の死、いずれかならず訪れくる自分自身の死。

 喪失に直面したとき、ひとつとして同じ感情はない。 「正しい嘆きかた」の決まりもない。  ところが、世間の視線は倫理じみた厳粛さを求めがちだ。 死は悼み哀しむもの、遺された者は悲嘆に暮れるべきもの、というような。 けれども、たとえば生前すでにおたがいの関係が破綻していたとしたら?

 呵責の念に呵まれる者に寄り添うぬくもりは、著者J・エリソン、C・マゴニーグルともに同じ体験をもつ当事者だからだ。 ひとりは家庭と世間とのあいだに夫の実像のギャップがあり、結婚生活に悩んで離婚を口にした翌日、夫が事故死した。 もうひとりは、長患いの夫を看取ったのち、しがらみからの開放を体験した。 くわえて、さまざまな死別体験者四十人の本音が語られる。

 こころは予想もつかない動きをする。 ある女性は、最初の夫の死に対する安堵の罪悪感から抜け出すのに二十年かかった。 遺された者が遭遇する感情の板ばさみ、孤立感が痛々しい。 著者はその傷や襞をこまやかにすくい上げ、肯定してゆく。

 生きる者として避けることのできない死をどうかんがえるか、その思いで読んだ。 逝く者は安らかな終息を迎えても、生きる者にとって死者との関係は依然終わらない。 こころのなかに現れたざわめきを鎮めるのは、きっと自分自身を自然のまま受け容れ、認めることからはじまるのだろう。

 まことに死は、生きる者の日々にかくも意味をもたらす。

                               評・平松 洋子<エッセイスト>

(H22・11・14 朝日新聞<朝刊>「読書」所載)

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