2013年12月 7日 (土)

支那占い師の社会政策的商法

 支那の賣卜師のところを訪ねて運命なり・長壽なりをうらなつてもらふといふ時に支那の賣卜師は筮竹を以て或は算木を以つて勿體振り種々の算命法をやつてみせる。

 早く云へばこは皆芝居である。意味ありげな饒舌を弄してゐるが最後にその料金を支拂はせらるるときになつて、そこに頗る面白い場面を見出すのである。
 と云ふのはたとひ占ひの上で如何なる事柄を判断してもらふともその事件の内容乃至はこれに要した時間の長短などは問題としないのである。普通は二十銭から三十銭の程度の料金を一回毎に申受けてゐる。

 ところがどうかすると稀には二元三元といふ飛びぬけた料金を請求せられてゐることがある。自分は度々斯様なひどい目にあつてゐる人を傍で見て気の毒に感じたことがある。
 けれ共吾人に無関心のことであるから格別気にするほどのこともなくそれと見てゐたのであつた。
 最近に至つて自分は南北各地方の賣卜帥のその心の奥底が読めた。そは同じ運勢を見て貰つたり又将来を占つてもらつたりしてゐる客にしてもその普通の面相の持主ならば三十銭どまりで大抵我慢をして呉れるのである。

 ところが如何にも頭の恰好がよく耳の長く垂れてゐるとか或は眼尻の下つてゐるとか、又頸の太くて短かい形とか顎の二重になつてゐる形とかつまりその客が見るからに不老長寿の面相の持主であるときはその事件や時間に関係なくあとで吹きかけらるゝ鑑定料の申出がいきなり三元と来るのである。

 稀にはその申分のない理想的の面相をしてゐる人であると見込まれたが最後十元くらゐの料金は少くともせしめらるるのである。

 曰く、閣下の相貌は天下無比の長寿の相を具備せられ、よい星の下に生れ合はせて御座る。ここ一年以内には必ず吉事が来たり御慶事に會はるることである。又御家は益々繁昌して家運はめきめき昇り閣下は所謂南山の壽を全ふせられる譯になつてゐる。そはちやんとこの通り算木の上に現はれてゐる云々といふやうに来る。そして實に下へも置かぬ持てなし振りで巧言令色の限りを盡すのである。
 かやうに褒められてみると客は之を以つて天の命するところとして之を重く見るのである。
決して悪い気持ちはしないものと見える。そして次から次へとほとばしり出る言葉は言々句々皆気に入るのであるから本人は益々悦に入つてしまふ。客はそこでシーシー(是々)と云つて心の中一パイ如何にも嬉しくなつて来る。そしてこの賣卜師こそは大いに話せるわいと惚れ込むのである。

 うまく掌中に弄ばれてゐることとは知らず、後でうんと絞られることにも気付かず嬉しさの餘り色々のことを見て貰ふ。大きな肴のかかつた網の持主なる賣卜師こそは得たりかしこしと之を丸めて物にする。結局最後の幕は十元からの料金にしてしまふ。

 客の方では悪い気持でゐないばかりか、この先生のためならばと油が乗り、乗り気になつてゐるところであるから二つ返事で大金を手渡しするに至るのである。

 自分は或る卜筮師からその間の消息をすつかり包まず匿くさず物語つて教へて貰つたことがある。實に長壽の人相を有する人こそ迷惑至極のわけであるが然し人間といふものは褒められるとなると褒められる程投げ出して来るものである。海山千年の商賣人は百もこの間の消息はわきまへてゐてそのうは手を行く。實にどうも物凄い腕である。人を釣
ることにかけては堂に入つたものである。長壽の相をそなへた諸君はこの點に於て少しく御注意あったらよからうと思ふ。

 普通專門家の間では壽相のものにはその當たりまへの客の十倍を請求するのが相場となつてゐると云はれてゐる。思ふに又事實壽相をそなへてゐる人は多くは金持である。
 社會政策の意味からでもあるか貧相なものには僅かばかりを要求し多く持つてゐるものにはどつさり要求するといふことは無言の中に自ら社會政策の精紳が行はれつゝあることゝ思はれるのである。
 
(後藤朝太郎著「支那長生秘術」<昭和四年発行>より)

 

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2013年11月20日 (水)

北風が運ぶ思い出=パンとウオッカとカルパス=森繁久弥

北風がはこぶ思い出

=パンとウオッカとカルパス=

森繁久弥

 

街にジングルベルのメロディが流れ、冷たい北風に思わずオーバーの襟を立てる頃になるときまって記憶に甦ってくる一つの思い出があります。

 

直径三尺のパン 

 

それは十五年程前、私が新京(現在の長春)の放送局に居た頃の事です。 灰色の雲が空を覆い、厚い防寒服を通して大陸の寒風が身にしみるような冬のある日、録音をとる為に一行七人はハルピンを通って牡丹江に向かいました。 ハルピンは御承知のようにエミグラントと呼ばれる白系ロシア人が沢山住んでいるところです。

 汽車がハルピンを過ぎてある小駅に停まった時、私達の前に四十歳位でしょうか、赤ら顔の好人物らしいロシア人の夫婦が乗ってまいりました。

 丁度、お昼を過ぎた頃でそろそろお腹もすいてきたので私達は持参した折詰を開きました。 およそ冬の冷えてしまった折詰の弁当というものは寒々として、あまりいただけたものではありません。 魚は小さくちぢこまり、肉は油が白く浮き出て固まっており、梅干の赤さだけがヤケに目にしみるといったものです。

 ところで私達が箸を動かし始めると前のロシア人夫婦もこちらのお弁当に刺激されたのかご飯を食べるような模様になってまいりました。 汽車に乗ってきた時大きなバスケットを三つもっておりましたが親爺さんがその一つを網棚から下ろすと、中からナフキンを取り出し、お内儀さんの膝の上に敷き、更にこんな時の為に特別に作ったと思われる板を置くのです。 おやおやと内心驚いていると、その上に次々と並べられる御馳走が凄いのです。 実際、それは私達が普通考えている車中の食事とは大分かけ離れたもので正に「凄い」といってもいいものでした。 大きなウオッカの瓶、大小とりまぜたカルパス=カルパスというのは日本でいうソーセージの事ですが=つやつやと光った赤大根、キャベツの葉が五六枚、更に古風な容器に食塩まで用意されているのです。 そして最後にお供え餅ほどもあるパンが出ました。 ロシアのパンの大きなのは直径が三尺ほどもあるのですから、お供え餅ぐらいあっても驚くことはないのですが・・・・・

 

早飯・立喰・・・・・・・

 

 日本ではパンを食べるようになってから日が浅いせいもあり、まわりの薄茶色に焼けた部分を単に固いという理由だけでパンのヘタなどと言って嫌う人が多く、甚だしきに至っては捨ててしまう人もあるようです。 サンドイッチをつくる時も中の柔らかい部分だけを使い、まわりの一番おいしいところをかえりみない向きが多いようですが、全く、勿体ないというより他ありません。 パンを常食している外国人にはこうした事は考えられない事で、むしろ、中の柔らかいところより珍重して居ります。 ロシアのパンなど特に冬は乾燥が激しいので非常に根気よく焼かないと中身が乾燥してボロボロにくずれてしまいますのでこのヘタが一寸近くもあります。

 さて、ロシア人夫婦のこの御馳走を前にして、早々に折詰を仕舞い込むと、後は失敬な奴だと思われないよう注意しながらも細かな観察を怠りませんでした。

 親爺さんはコップにウオッカをなみなみと注ぎグイッと一息に飲み干すと大きな包丁で丁度リンゴの皮をむくようにしてカルパスを切るのです。 そして半分ずつポクポクと美味しそうに食べて居りました。 パンもカルパスと同じような手つきで削りとるとバターをたっぷりと塗って口に運ぶと、唇を閉じてゆっくり噛みしめて味わっている様子です。 二人はこうして、窓外の景色に時々目をやりながら、ウオッカを飲み、パンをかじり、赤大根に塩をふりかけてパリパリと食べます。

 日本人の食生活には早飯とか、立喰いとかいってとかく食べる事をいやしむ風潮がありますが、このロシア人夫婦の食事の様子からも彼等がいかに『食べる』ことをエンジョイしているかが滲み出ているような印象を受けました。

 

一番うまかったパン

 

 私達も、牡丹江に着きますと、早速ロシア人の食料品店を訪れパンやミルクを求め、ロシア人に負けないような夕食を始めました。 カルパスを大いに食べた事は云う迄もありません。 ボルシチューといって、丸ごとの馬鈴薯や人参と紐でしばった肉の塊りを一しょに鍋に入れ葡萄酒をたっぷり加えグツグツ煮たものもロシア人の小母さんがサービスしてくれました。

 二重窓の外では、身を切るような朔北の寒風が吹き荒れております。 家の中ではペチカがもえ、おだやかな雰囲気がただよいボルシチューの鍋はあたたかな湯気を立てて居ります。

 こうなると矢張り薄い、さむざむとした折詰では気分が出ません。 私達はパンやカルパスを大いに食べ、ミルクを飲み、ウオッカのグラスを重ねて、満ち足りたおもいに夜の更けるのを忘れ、大いに語ったものです。

 これは私が今までに一番おいしくパンを食べた時の話です。

 

(昭和31年か32年の「週刊新潮」某月某日号75ページ<PR>所載)

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2013年11月19日 (火)

beランキング 「よみかえらせたい死語」

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「よみがえらせたい死語」

言葉のしかばねが累々と重なる

汗まみれでハアハアいってる、あなた。こちらキンキンに冷え
ております。なにげなくつぶやかれるだけで、悪寒が背骨をズキ
ュンと脳天までつきぬける「死語」の世界へようこそ。その恐怖
にうちかつため、今回のアンケートで、成仏しきらず亡霊のごと
くさまよっている死語にふたたび命を吹きこんでみました。

 場の空気を凍りつかせる冷却効果は悪魔の吐息級。そんな筋金入
りの死語を網羅した『【難解】死語辞典』は、30代から60代まで世
代別に、オヤジたちに通じる死語を分類している。
 1959年生まれ、ばりばり50代の私が読み飛ばすわけにいかな
かったのは、「50代はこんな死語を使いがち」という解説だった。
そこには、こんな仰天すべき分析が書かれていたのである。
 「『とっぼい』 『すかす』といった自意識や、『マブい』 『ナウ
い』など流行の立ち位置を気にする世代。そのくせ使う言葉は古い
ので、一番対応に困るのもこの世代の特徴だ」 「冷めた姿勢とは裏
腹に、ドリフや赤塚不二天の漫画で覚えたお笑いはシュールで投げ
っぱなしのギャグも多く、100%の返しは難しい」……。
 シェー!!(さっそく使うなって)、「一番対応に困る」って、
どういうことだ!? だが、50代は心ならずも底なしの死語の沼に沈
みこみ、もがき苦しむ不器用な世代であることが、回答者のコメン
トの数々からもしのばれるのだ。
                                          

  外来語崇拝が死語化を加速

「『ロハでいいよ』と言っても                            
通じなかったので、『漢字の只という字を分解すると、ロとハにな
るから…』などとくどくど説明するうち、最初から『タダでいい
よ』と言っとけばよかったと後悔した」 (長野、54歳女性)、「夫
はハンガーを『えもんかけ』、私はハイネックを『とっ<り』とい
つも口を滑らせてしまい、知り合いにあきれられている」 (千葉、
53歳女性)、「仕事で絶体絶命のピンチを脱するアイデアがひらめ
いたとき、『ウルトラCの秘策があった!』と思わず叫んだら、年
下の同僚は『ウルトラC』の意味が分からず、キョトン顔をしてい
た」 (東京、50歳男性)、「女子高生と話しているとき、『縁側』
が通じなかった。苦心さんたん説明していたら、『ああ、アニメの
サザエさんの家の庭に面した部分のことね!』と言われた」 (長
崎、56歳女性)などなど。
 だが、「会話中に明らかに死語の言葉しか思い浮かばないとき、
『その服、ナウいわね! ごめん、バブル世代だから古くさい言
い方しちゃって』といちいち断りを入れている」 (神奈川、50歳女
性)と涙ぐましい自己卑下まで迫られるいわれはないはず。おそら
く、弱肉強食のおらおら世代だった団塊60代になると、「死語です
けど、なにか問題でも?」と問答無用で開き直れそうなので、面倒
くさい葛藤に悩まされたりしないだろう(あくまでも推測です)。
 でも、ふと我に返ってみれば、死語ごときに振りまわされること
など、あっていいわけがない。
 事実、若者言葉の研究で知られる言語学者の加藤主税・椙山女学
園大教授(66)によると、もともと死語とは、ラテン語のように日常
では用をなさなくなった絶滅言語のことだった。世代間ギャップの
元になる古くさい言葉の意味あいが濃厚になったのは1995年ご
ろからのことで、以後、しかばねが累々と積み重なるように死語が
増え続けているというのだ。
 「言葉の死語化が加速された原因のひとつは外来語崇拝。写真機
がカメラヘ、帳面がノートに代わるようにカタカナ語に負けてしま
うんです。もうひとつは若者が年上を軽んじる風潮です。年配者が
口にした難解な四字熟語などバカにするだけで、辞書をひいて調べ
ようともしませんからね」
 加藤教授がよみがえらせたいと願う死語は、「べっぴん」 「ほの
字」 「恋文」など、品格のある和語の響きを伝える言葉だという。
 朽ち果てさせるには惜しい、みやびな言葉の数々が、死語の墓湯
から丁重に掘りかえされるのを、きっと待ちわびているはずだ。
         (保科龍朗)
ランキング
1位 バタンキュー  383票
2位 おニュー    336票
3位 お茶の子さいさい  333票
4位 ハイカラ    324票
5位 ルンルン    318票
6位 驚き桃の木さんしょの木  313票
7位 アベック    302票
8位 胸キュン    299票 
9位 グロッキー   297票
10位 イチコロ   296票
以下、小股の切れあがったいい女、ミーハー、あたぼう、地震雷火事オヤジ、
おきゃん、社会の窓、イカす、感謝感激雨アラレ、オバタリアン、タンマと続く。

(朝日新聞デジタルの会員登録者を対象に25年7月におこなったアンケートの
回答者1519人の回答による。)

H25・8・10 朝日新聞<朝刊>所載

*別冊宝島編集部編『【難解】死語辞典』(宝島社)、
 加藤主税編『女子大生が大好きな死語辞典』(中部日本教育文化会)  

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2013年9月17日 (火)

駅長に渡された水蜜桃の感触

駅長に渡された水蜜桃の感触
               
     無職 笠井 昭人
       (神奈川県 85)
 45年8月20日夕刻、福島県郡山
市を出発した列車で一路南下し
た。すでに東京は米軍に占領され
ているとのうわさから、混乱を避
けて大宮駅で乗り換え、長野駅回
りで帰ることにした。
 私は17歳、海軍甲種飛行予科練
習生の七つボタンに身を包んで、
郡山海軍基地から故郷・長野県松
本市へ帰るところだった。既に日
はとっぶり暮れて、列車は闇の関
東平野を走っていた。
 突然、窓の外にスーツと一筋の
光が流れた。何だろう、といぶか
っていると、また一つ、二つと流
れた。ハッとした。あれは民家の
明かりではないか。そうだ、戦争
は終わったのだ。今は明かりの下
で夕飯を食べられるのだ。
 列車は深夜、上田駅止まりとな
った。仕方なくホームのベンチに
寝転んで、明朝の始発列車を待つ
ことにした。そこへお下げ髪にモ
ンペ姿の女子駅員が来て、「駅長
がお呼びです」と言う。
 部屋には初老の駅長が待ってい
て「長い間ご苦労さまでした。も
う戦争は終わってあなたたち若い
人が死なずに済むようになりまし
た。これからは日本の再生に尽く
してください」との言葉ととも
に、大きな水蜜桃を差し出した。
ずっしり手のひらに残る感触を、
まだ忘れていない。

(H25・9・17 朝日新聞<朝刊>「声」所載)  

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2013年9月 8日 (日)

支那遊廓の文學的雰囲気<中国を愛す>

支那遊廓の文學的雰囲気

支那の遊廓、色街邊りを覗いて見ると、どちらを見ても紅燈、金銀の標札などの影美しく、
叉なまめかしい曲線美に富んだ美人が家並に眺められる。 
紅燈にはその藝者屋の屋號が美しい文字で入れてあり、金銀の標札にはその
店自慢の一流藝者の名前など楷書の肉筆で立派に書き現はされてゐるのを見る。
大抵三枚五枚と掲げられてゐる。門内には二三十人の美人が抱へられ、その各房室にはそれぞれ特徴のある蘇州美人・楊州の美人、その他の紅裙連が控へて居る。年増の婆さんが、来客の見えた時には行きなり中庭の真中に立ち、黄色い聲を張上げて第一號室から二號三號室と各房の手合の藝名を聲高く呼びあげる。
すると蓮歩楚々として或は薄化粧或は厚化粧の連中が聲に從って思はせ振りの
姿をして細い手を振りながら静かに客の面前にお目通りするのである。さうして一應の
顔見せが済むとあとで、老婆は、今呼びあげたうちでどれが一番お目に止つたかといふことを聞く。普通のおのぽりさんであるとその次から次へと繰出された美人達の麗はしさに面喰つてしまつて、一々その呼び上げて呉れた名前なんか耳から耳へ抜けてしまひ、覺えても居らない。
それであるから、ただ三番目が宜かつたとか、四番目が気に入つたとか云つてその番號で返事をする。これも支那の習慣は日本邊りのそれとは違つて、行きなり行つた客なんかは宜い加減に取扱はれるものが多いのである。客の方からその室に這入り、寝台に腰を掛けたり、冗談半分分の話もしたりしながら互に喋々喃々して見たところで、その女が客に向つて麻雀をしませう                     
かと云はれる程度の嵌つた言葉を掛けられるところに至るまで来なくては物にはならぬ。そこまで来るには少からぬ月謝と時日とを要するわけである。その言葉もかけられないのにこちら  
でばかり泊つて行きたいやうなことを匂はして見たところで、そのやうな客は必ず肘鐡砲に決                                         
つてゐる。その邊の濃やかな心理作用は日本と風俗習慣を異にしてゐるわけであるから、一見舊知の如く云つてくれたからとて、それは誰れにもばらまくお愛想の言葉にしか過ぎないのである。
                              
支那に遊ぶ者はなるべくいきなり城外のステーションに宿をとるやうにする。そして時刻
は、夜分になるやうにプログラムを作る。これが通なやり方である。すると、その都城にゐる友人なり先輩なりは旅慣れぬ新来の客のことを思うて驛頭で迎える。その時、その手荷物、スーツケースなどはいきなり我家に又はホテルの方に送り届ける。さうしてその客の身柄は自分で引きとり傍に乗せ、西も東もさっぱり分からない先生を飛んでもない方面へ連れて行く。 
                    

さうして初對面をさせるのである。すると、チイチイパアパアをやられるので面喰らひ飽つ気にとられる。豫て支那の世相はこの様なものだとは聞いては居つたが、成る程目の前に突付けられて見ると、どうしてよいか。吃驚するやら嬉しいやら、言葉が丸きり解らぬので、何のこともない。西瓜のたねを投付けられて見ても、それが愛せられて投げられてゐるのか、馬鹿にされて投げられて居るのか、その邊もさつばり分らぬ。けれども兎に角支那に来て、初めて入城した時の第一印象を得る點に於て、此の方法は最も歓迎した方法だと見えて通な人は多くこの方法を採る。
それも時刻が少々早いやうな時には、先づ何處かの普通の酒楼菜館に引張り込む。さうして 
後に梅蘭芳<メイランファン>の芝居戯臺あたりへ連れ出し、どうやら芝居の撥ねた時刻を待つてその方面へと立て続けに引張り廻すのである。引張り廻されて見ると、おつかなぴつくりではあるが、しかし旅の疲れも一遍に脱けてしまつたやうな気がして来て、言葉は解らないけれども、好い気持になる。酒の味からうれしくもあり目を小さくし、初めての支那気分に打たれた事がわかり得も知れぬ支那式の洗禮を受けるのである。かう云った通人のおのぼりさんに對するもてなし振りも、夜の路上風景しては見遁すことの出来ない一場面である。
                    
(後藤朝太郎著「支那の體臭」<汎文社 昭和八年発行>より)

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2013年9月 2日 (月)

浙東の人情美<中国を愛す>

浙東の人情美

 菜種咲く江南の春は、翰墨行脚にはもつて来いの好季節で、見渡す限り野も水も畑もさうして人の心の上にも、長閑な光が伸やかに微笑んてゐる。江南の春の旅を思ひ立つ度毎に、ゆったりと霞に抱かれたやうな気持がどこからともなく、涌き起つて来る。
 呉越同舟の銭塘義渡の乗合客のうち、六十餘りと思はるる百姓の老爺がゐた。昔から一蓮托生の言葉のある通り、敵味方の睨み合い同士でも、同じ舟の中では運命を共にする譯であるが、ここは又文字通りに昔から北は呉の国、南は越と云ふ譯で、乗合客は全くの呉越同舟その者である。
 しかしそれも今は昔の話で、しかも頃は春酣なる時である。微風は徐ろに面を吹いて、上手江上の彩雲に聳ゆる六和塔はその影も幽かに雲雀がをちこちに囀ってゐる。
 「どちらへいらつしやいます。」親しみ深い顔付で、老農は自分に話しかけた。
舟の中ではあちらこちらに高聲の話も始まり呑ん気さうな歌も聞えて来る。
 「どこといふ當てもない旅だが、今日は蕭山まで行かうかと思つてゐます。」
 「あゝ、それはよい道連れで、私は蕭山の先きの田舎まで帰りますでお伴を致しませう。」
 自分もよい連れを得た譯だ。急ぐ旅ではなく、この地方の民情美に接し乍ら行く事は、願つてもない事である。
 銭塘江を渡つた対岸は、今は護岸工事がすつかり出来て、舟が横づけされるやうになつてゐるが、その頃はまだひどい泥の遠浅で、わづかに一尺幅位の板橋で短い脚のついたのが、かれこれ七八町も渡されてゐた。持ち物などのあつてはかなり危ない藝當であつた。
「半分持ってあげませうか。」自分は蝙蝠傘と小さい手提しか持つてゐなかつたので、多少手に餘力があつた。
「なに、有難うございます。これ位の事はね、まだやれますよ。しかしこの邊に馴れない方はよく泥の中に嵌まりますから御用心なさいよ。」律義な老農は、自分のものは自分でといつた恰好で、かなり重たさうな荷物を両手に持つて頑張つてゐる。その上こちらの事迄注意してくれるのだ。
板橋を渡って河原を越ゆれば、行く手は蕭山紹興へと通ずる街道である。蕭山へは道を東に取ればよい。
老農と並んで春の日永を、ゆっくりした道中だ。先つきの乗合客のうちにしこたま草紙の荷物を持ってゐた男達が、上反りのした竹の天秤棒にそれを擔いで、「エー、ホー、エー、ホー」の掛聲も勇ましく後から追いついて来た。
追抜き乍ら會釋をして飛んで行く。
その掛聲は霞に包まれた會稽山にこだまして、餘韻が長う眠そうに響く。路傍のあちこちには、白い菫が咲いてゐた。赤顔のがっしりしたお嬶さんが追いついて来た。これも乗合客の一人である。紅紙で包んだ品物を、手籃に盛ってゐる。老農とはかなり親しい間柄と見えて.路傍に立止り話し出した。浙江なまり其の儘な、尻上りの黄い聲で話は続く。よくは解らないが側で聞いてゐると、村の祭の為めに、杭州の閘門までわざわざ買物に出かけて行ったものらしい。あれこれと話した末が、女の話はどこも同じで、家庭の事に迄及んでゐる。日本のむかしの、百姓村のことなど、ふと思ひ起して懐かしかった。老農はこの界隈では顔役と見えて、道々大分會釋を受けてゐるやうだつた。そは餘り肥満したと云ふ方でもなく、押出しのよい程な姿をしてゐたのでもなかつたが、面長の方で何處となく人品があり、身なりも悪い方ではなかった。 ぽかぽか照る陽に背を敲かせ乍ら、話も長閑に道は長い。
浙東の田舎には、面白い風習がある。茅坑<マオカン>といって、路傍に行人の目に晒された戸のない便所が見える。
三人五人と一緒に並んで、腰を据えてやるやうに出来てゐるので、村の人であらうが通りがかりの者であらうが、催ほして来ればこれに腰をかけ呉越同舟で用をたすやうになつてゐる。
蓋しこれは天下の奇観で、中には五尺にあまる銜へ煙管で構へ込んでゐる先生もあり。
左右の人と大話をし乍らやつてゐる者もあり、草紙を手に、屈み加減になつて、正に終局を結ばんとしてゐる者など、春とはいひ乍ら随分呑ん気振りを発揮してゐる光景である。
老農は手荷物の疲れも出ないのか、その前に立ち止まった。
「よいお天気さんで、」
「よいお人気さんですね」
芥香たゞならぬにも拘らず、長煙管の先生をつかまへて、又一くさり談じ始めた。新緑の陰
の片廂のもとで、一人は屈み、一人は立って語り合ってゐる両農に、空の雲雀は高く囀りかける。白い蝶々も飛んで来た。
近所の老媼が春蚕の絲をひく音がする。 ピーンピーンと響くのは、古綿を打つ音でもあらうか。
これらが春光のもとに相和してゐる風景と云ったら唐人詩にも見出されない翰墨気分の極を現はし、革命動乱何んのその、正に天下は太平である。
こんな事で道草を喰ひつつ行くうちに、自分の手にしてゐた蝙蝠傘の彎曲した柄が、見知らぬ行人とすれ違ふ際に、誤ってその人の紐ボタンに引掛かつた。相手は振向き乍らひどく怒り出した。
謝罪するよりどうしようもない。すると老農は、我が孫のしくじりでもあるかのやうに、田舎言葉もいと慇懃に、その過ちを断ってくれてゐる態度は、一々よくは解らなかったが、腹の底から謝つてくれてゐる様子である。それに動かされてか、相手は顔も柔らぎ、笑ひ乍ら許してくれた。
漸くほつとして行く事五六町、何のはづみか又やつた。今度はその失策をした事よりも、老農に気を配らせる事が気の毒で、穴にも這入りたい気がした。が失策は既にやつてしまつたのだ。どうしても今度は自ら平謝りに謝って、自分で解決をつけずば居られなくなつた。
「どうか」といひかけたら、又老農の聲がそれを遮つた。
「この客人は東洋<トンヤン=日本>から来られた人で、遠来の客だからどうか許して上げて下さい。」
陽に焼けた手を出して、相手を宥め押へてゐるのである。今日會つたばかりの老爺である。
それが腰を曲げて詫びてくれるので伏し拝みたい程嬉しい気持がした。危難を救つて貰った為めではない。かうした人間の真心に對して、感激せぬ者があるであらうか。
浙東の道はまだまだ長い。道草を摘んだかずかずの話は、又の機會に語り綴ろう。春の日永の江南の旅は、何を思い出しても懐かしいのである。

(後藤朝太郎著「翰墨行脚」<春秋堂・昭和六年発行>より)

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2013年6月19日 (水)

「東京物語」、世界の358人の映画監督が選ぶベスト映画の1位に

 小津安二郎は1903年、東京・深川生まれ。 23年に松竹キネマ蒲田撮影所に入社、32年製作の「生まれてはみたけれど」が、「キネマ旬報」1位に選ばれた。

 日中戦争に従軍、戦後は「晩春」「麦秋」「東京物語」等を発表し、溝口健二や黒沢明とともに、日本映画全盛期の巨匠といわれた。

 6312月、60歳の誕生日に死去した。

 「東京物語」は、広島県尾道市に住む老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が主人公。

 東京にいる長男(山村聡)と長女(杉村春子)を訪ねるが、日々の暮らしに精いっぱいの彼らは、両親をもてあまし、時に迷惑のそぶりさえみせる。

 一方、戦死した二男の嫁(原節子)は今も一人で暮らす。 老夫婦を心を込めてもてなすのは、血のつながらない、この嫁だった。

 先日亡くなった米国の評論家ドナルド・リチーが海外に紹介、国際的に知られる映画の古典に。

 小津を敬愛するドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースは85年、「東京物語」をベースに、東京の現在をルポ風に描く「東京画」を発表した。

 昨年、英国映画協会が発行する雑誌で世界の358人の映画監督が選ぶベスト映画の1位に選出され、高い評価が再確認された。

 「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画を作りあげた」とされた。

 2位は「2001年宇宙の旅」と「市民ケーン」。

 ちなみに批評家が選ぶ「ベスト」でも、3位だった。

 

(25・6・1朝日新聞<朝刊>be「映写室」所載)

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2013年6月 2日 (日)

支那宿(中国を愛す)

支 那 宿

 支那の旅に於て、何んらその風物人情に接觸ののない日本宿を選び、支那の匂ひの全然見出されぬ日本畳に旅枕を結ぶことは、従来の支那観光に於ける態度気分の中で、最も注意せねばならぬ自家瞳着                                                                                                    
の点ではなかつたらうか。支那の第一線に立つて放館業を営んでゐる、各地の日本人を無視したり、その意に反した言を敢へて好む譯ではないが、支那を理解するといふ大きい立場から、支那宿の内容を、少しく左に詳細に紹介することとした。
         ○
支那宿の感じは、潔癖性の日本人とか、細かい所を気にする日本人とか、異郷を琳しがる日本人とかにとつては、頭から問題にされてゐない。 なぜか?それは日支人間に於ける宿の考へ方の上に、根本的の相違があるからである。
支那の旅先きで、支那宿の門をくゞらんとする人は、先づ努めて支那式の気分になりすまし、潔癖な点も、細かい気難しい点も、凡て超越して、大まかな呑ん気な気持に、自分を変へてしまふといふ覚悟が必要なのである.其處迄の肚がきまらず、無理に強ひられ支那宿に這入つた所で、これでは、やり切れぬと、這々の體で逃げ出すが落ちである。支那を知らうとする者が、支那宿の一つも見極めることが出来ないやうでは、百の蒋介石に会つた所で、千の萬壽山を見た所で、何んら根柢に觸れない上面の                             
支那観光となるに過ぎない。
       ○
 支那宿の日本人にしつくり釆ない点は、第一その部屋が大陸的で、細かい点に注意の行届いて居らずガランとした所にあるのである。壁は白く塗られてゐても、さはれぽ白い粉がついたり、桐油、ペンキで上塗りがされてゐても、大ざつばな仕上げであつたり、又白紙が貼られてゐても、壁の片隅が剥げて、土が垂れ下つてゐるといふ有様で、日本人の気持に合つた飾りは、少しも施されてゐない。しかし椿樹や楊柳の窓辺に、時には唐人もどきの旅愁を詠じた七言絶句が落書されてゐたり、「挹嵐」「五福臨門」などの八分隷や「聴泉」「出門見喜」などの篆書の、如何にも風韻の高い篇額が掲げられてゐたり、或は
  人に、千秋の志あり
  家に萬巻の書を蔵す
   (人有千秋志 家蔵萬巻書)
などの聯がかけてあつたりして、何處となく翰墨的な気分が横溢してゐるのを見ることもある。大體日本人と支那人との間に於いて、宿といふものに対する概念は、そこに甚だしい隔りがあるのであるから、その隔りに思ひを致さず、唯日本宿を標準にして支那宿を批評して見た所で、全くそれは當つてゐない譯である。支那宿に泊るといふ事は、その点で既に支那を知らんとするものにとり、重大な第一歩であることを思はねばならぬ。
        ○
支那宿の室内には、寝台の外に、八仙卓、椅子、茶几、洗面器、鉢植、馬桶(便器)位な調度があるだけで、他には何んら用意がない。しかし戸閉りや窓の用心は甚だよく、ドアーのない宿は稀れである。
尚細かく見て行くと、卓上の壁に宿泊規定の印刷ビラが示されてゐたり或は
一 私 吸 阿 片
二、聚 賭 麻 雀
三、招 引 娼 妓
 
(阿片を私かに吸ふ勿れ)
(麻雀の賭博をやる勿れ)
(娼妓を引張り込む勿れ)
 民国二十年二月       廰長 呉 思 豫
などの掲示のある處があつたりする。 南支の気のきいた旅館にした所で、わづかに電燈の飾り笠が幾らか美しい位なもので、大した事はない。床柱を背負はなくてはといふ、日本恋いしさの旅人には、支那宿は無論落第である。
支那宿に親しみの気持を持ちちたいと思ひ乍ら持つことの出来ないのは、多くは便所の関係である。
北方の田舎は、壁の外側に奥深く煉瓦が二つ置かれてゐて、犬又は豚の番をしてゐる所、南方では部屋の中に用意された馬桶の上に腰をかけ、人前構はず用足しをする勇気を出さねばならぬ事、これが何よりも閉口させられる難関である。この難関を突破してしまへぽ、後の事は凡て平々凡々で、寧ろ日本宿の如く側に来て細かい事に小うるさく世話をやきたがる者もなく、萬事自分の気持一杯で、思ふがまま振舞へるから、甚だ気楽であつてよい。

        ○
 支那宿は食事のついてゐないのが原則である。特に頼めば、簡単な朝食くらゐは用意してもくれる。けれ共、支那の習慣として、昼も晩も宿で食事する者は滅多になく、その邊は到つて呑ん気である。従つて宿泊料も、単に泊り質だけでそれに一割見當の酒銭を輿へればよい。
 大規模の旗館であると、勘定のきめが正午を限りにしてゐるから、おそくも十一時半位までに宿を立つ算段にするのがよい。若し翌日午後にまたがつて、鞄一つでも部屋に置いて留守乍ら占領してゐたことにしてゐると、たとへ一時間であらうと、二時間であらうと二日分をとられる。萬止むを得なければ、勘定は午前中に済ませて部屋を明渡し、鞄は帳場の一隅へ預けて置くといつた方法の方が、要領のよい旅立ちのやり方である。この習慣を知らない為めに、宿泊二十四時間を楯にとり、二日分の勘定云々で、主客相争うてゐる光景を見る事がある。
 尚馴れぬ旅の客は、勘定の支拂ひ、乗物の傭ひ方など一切を番頭に任せて立替へてもらつた方が、多少の上前ははねられるにしても、大きな損がなく、先づ安心な遣り方である。
         〇
 普通支那宿は、特別の食事をいひつけない限りは、何時になつても用意をしないのがきまりであるから、来客などがあつても、共に誘ひ出して心當りの采館に足を向ける。 宿は単に寝る事と、来客に面会する事と、入浴する位がせいぜいである。
 普通正面の廣い土間を客廰といひ、大きな姿見や、聯、篇額、置物、花瓶などの飾りつけがあるほかに、                                                                                          八仙卓や椅子、茶几などの調度の立派なのが、壁に沿ふてずらりと並ペられてゐる。入ロの賦房(帳場)の例の壁には、幾十人といふ泊り客の名前と住所が、王先生廣東、陳先生四川、蒋先生上                                                                               
海、などと、一目瞭然に掲示せられ、前夜来たばかりの客に、滕先生東洋(日本)、と自分の名前が白字せられた黒板を見るにつけても、一層懐かしく感ぜられる。時には、宿の門を這入つて客廰に立づたまま
 
 

座中千里近し

 簷外四山低し
  
 (座中千里近 簷外四山低)

などといふ聯の句を見てゐると、番頭が出て釆て茶を出す。
柔かい態度で挨拶してゐると、日本人とは露知らす、支那服支那帽の自分へ、廣東から来たかといふ。                                                                                
 「さうだ、廣東来的<ライテイ>」と答へる。すると軈て黒板にこんどは、滕先生廣東と自書されてゐるのを興味深く眺める.

         ○
 宿にその友人を訪ねて来た人は、客廰で訪ねる旅客の在否を確かめ、番頭なりポーイなりに、その部屋の番号を目當てに案内される。しかし来客が、さまで親しい友でない場合は、客廰に待つてゐて                                                                                                             
もらつて、姿見の前あたりで聯の句を眺めつつ、要談に這入るのが普通である。その席では、西瓜子<シーコワツ>などは出ないが、熱茶と蒸した手拭くらゐが普通出る。段々話が進んで、他の来客と立て合ふやうになれば、自然「如何です、私の部屋へ」と自ら案内し、煙草を出し、燐寸をとつて自ら火を点じて差し出す所までやる。 客は恐縮し乍らも、よい気持になつて、増々話が佳境に入る。設備のよい新式の宿であると、風呂ボーイに用意をさせ、互ひに譲り合つて前後に入浴をすませ、よい気持で晩餐に出かけるとか、又はかねて招かれてゐる某君子の宅へ一緒に行くとか、そんな時は、既に乗物の轎子が門に来て待つてゐるといふ段取りになるのである。
 かういつた支那宿の気分は、誠に大まかであるが、はかどりよく垢抜けがしてゐて、而も余韻嫋々、そのうちに呑ん気な気分が漂つてゐる、用語が充分に操つれなくても、大體の話相手さへ出来れば、相手の方でも半ば察してくれるので、言葉よりも気分が大事である。今出かけやうといふ際に、先方から電話で、乗物を廻はすからとかいふやうな親切な気分を味ふことも、支那の本當の旅を味つた者でなけれぽ解らないと思ふ。
         ○
                                                                               
 支那宿の表看板には、「悦来旅館」とか「迎賓旅社」とか、「紹輿旅館」とか、或は「老公大
<ラオコンタ>」「恵中<クエツン>」「一品香<イッピンシャン>」などと、 
旧来の屋号の文字を見るのが普通であるが、又近来は、半ば西洋風を支那風に加味したモダン旅館が現はれて釆た。        これは凡て「中西旅館」といふ抽象名詞で総称され、その表看板を掲げてゐる。洋風の枕の被ひや、電気のスタンドなどを置いて、新人達の気持に添ふやうハイカラな気持を示してゐる。
 しかし支那宿は、概して採光が悪く、薄暗いのが一般で、その方が気持を落着ける特徴を有してゐる。窓は小さく、廊下は深い。白壁又は白紙を貼つて、多少の明るい気分をエ風してゐるうちもある
が、一般は必ずしもさうではない。
 北方の宿の客室は、ろくに寝台の置かれてゐるのも少く、中等以下の旅館になれば、床に敷物が敷かれてゐるのが、めつけもの位である。
 北方の寝台の少いのに較べて、南方支那の宿は、幾ら下の下まで下つて見ても、ちやんとした四本柱の寝台が用意され、宿の等級にもよるが、その寝台の床には、金網又は籐で編んだもの、又は棕梠
で編んだもの、又は棕梠縄で編んだものなどがあり、余程ひどいのになつても、板張りに敷物がつけ                                                         
られてゐる。そして多くは、紅翠紫などはでやかな絹表の洗練された夜具が縦長く折り畳まれて、寝台の一方に飾られてゐる。四本柱の廻りには、春夏秋冬四季を通じて、白布の蚊帳が吊るされされてゐる
為め、冬などは殊に枕元が暖かく、携帯品などもその中に蔵めて置かれる。
 清潔な宿には、夜具に南京虫の出る恐れはない譯であるが、こればかりは油断がならぬから、寝る前に二つ重ねられてゐる洋風の枕などは、よく調べて確かめるなり、除虫菊などを蒔いて置く方が安全である。

         〇
南方には人の嫌ふ蝎の姿は見ないが、北方では度々出くわすことがある。手拭を用ひる時、靴をはく時、下敷の鞄を持ち上げる時など、じめじめした所に静かにかくれてゐるから、念を入れた上にも念を入れなくてはならぬ。北支那の害虫のうちで、これにやられると痛いばかりではなく、忽ち毒が全身に廻る。部屋のボーイに頼んで1匹二十五銭で買つてやるといひつければ、近所から手當り次第採集して釆てくれるので、アルコール漬の瓶詰を土産物にするなどは、好個のしろ物である。
夏の午後、臍など出して午寝をしてゐると、胸のあたりなどに登つて、そろそろと歩いてゐる事が  
ある。見つけたら最後、團扇で静にこれをすくひ上げるのが何よりである。若し上から敲きつけたりなどしようものなら、反抗的に即坐にさされる。すると全身へ瞬く間に毒液が廻り、危険な状態に陥る事がある。萬一さされた場合は、何はともあれその局部をいち早くメスで切り取り、その作用を擴大せしめないやうに、豫防することが肝腎である。道理で昔から、蛇蝎の如く恐るるといふのも、實物を見ると一層その感を深くする。
         ○
支那宿の衛生状態は、北方は空気乾燥といふ天然に恵まれてゐるので、殆んどこの点は問題を超越してゐる。気にすれば際限はないが、大體土地の住民と同じ行き方をするのが支那の旅の常道である
から、別段気に病む必要はない。殊に田舎宿の部屋は簡単明瞭で、殺風景な位に何物も用意されてゐないのであるから、先づ空家に寝かされるよりはましだといふ覚悟がついて居れば、さして苦にもならぬ。
 南方の支那宿は、北方に較べると甚だしう文化的である。部屋には大きな痰壺を置き、庭には下水のはけ口を注意し、煙出しの点や台所邊りも、年一年と衛生に適ふやう改善されつゝある。何分にも住民が無頓着で、あの立派な體格で凡てを突破しょうといふ、意気の旺んな気魄が見えてゐるのと、南方は到る所運河水郷なので、何物をも凡て水で洗ひ清めてしまふといふ天恵があるので、北方より文化的に進歩の早いのは當然なことである。從って空気は湿気を帯びてこそ居れ、存外その方面の心配はない。殊に熱茶を飲み、熱い料理を夏の炎天にも構はずたべてゐるのであるから、日本人が考へるやうな衛生上の心配は、結果の上から見て決してない。
 近来三民主義の流行熱から、衛生方面の宣傳が城内に、街に、村に、盛んであるが、しかし實際に旅行して見ると、その宣傳の如く大したこともない。道路衛生なども、依然として變りがなく、砂糖黍を噛み締めた滓など、南支到る所の路上にちらばつてゐて、これに箒を加へてゐる者など、見たことがない。
         〇
 尚宿の用心の点は、これ又心配すれば際限のないことである。特に大金を携帯してゐなければ、何                                                
んら心配の必要はない。又多少所持してゐる場合は、脹房(帳場)の主任に、封印をして預けて置くのが安心である。頼まれたら最後絶対的な責任をもつて保管してくれることは、昔からの習慣で、これには全く確實性がある。
 用心の点に気を配る人は、兎角ピストルを持ちたがつたり、人知れぬ何物かを持つ癖がある。これが悪い事は、前にも再三述べた通りである.所が何物も匿して居らず、虚心坦懐、手鞄一つで泊つてゐる時などは、番頭などと話し合つてゐるうち、話題の都合では鞄を開き、何んといふ事なく趣味的に携帯品を見せてやるのもよい。例へば安全剃刀にしても、馬鹿に面白がる。或は西洋剃刀を皮で砥ぐにしても、これ亦生れて始めてと見えて、興する事夥しい。何んでも一つ面白く思はせると、後はこちらに好意を持ち、親しみの情を寄せて来るやうになるのは、何處も同じい人情の機微で、無用心な事は、番頭の方から注意してくれるやうになる。

       ○
                             
 支那宿の帳場には、北方では掌櫃的<チャンクイデイ>又は掌櫃<チャンクイ>、南方では東家<トンカ>又は老班<ラオバン>といふ、日本の番頭に當る者がゐる。主人そのものを、又かやうに呼んでゐる事もある。
 宿に着けば、先づ帳場を覗いて、この一語を発して呼びかける。すると大抵、首の太い大まかな老爺が出て来て、会釈をする。その他上等の宿の帳場には数多の店員小僧達が居り、卓上には硯、筆、水滴、落花流水など風韻のある表紙の書かれた厚ぼつたい帳面が、無雑作にひろげられて、客の出入を大声して挨拶してゐる。
                            
 北方では、眞冬になると、煤球児<メーチュル>(小さき炭團)を入れた支那火鉢を置いて、暖房用に供し、口の長さ一尺もあらうといふ、大きな真鍮の茶瓶を上にかけて、ガラガラ湯をたぎらせてゐる。爰に引寄せ                                                                 
られて帳場に這入り、冗談などをいつてゐると、卓上に熱茶を出して「請坐、請坐<チンゾウ、チンゾウ>」と椅子を勧める。
その邊の愛嬌振りといつたら可愛い。帳場内部の気持は、叉何んともいへぬ暖かみとゆとりがある。

かうして特に親しくしてゐると、外出がおそくなつて帰らうと、預けものをしようと、我儘がきき、手土産の一つも持つて帰つてやると、馬鹿に喜ぶものである。

         ○
支那宿の台所は、前にもいつた通り、客に食事を出さないのがきまりであるが、しかし宿のうちの者だけでも相当に大勢であり、又申出でのあつた客の飯をつくる用意などで、相當時刻前は取込んでゐる。

 山東方面では、名物の白菜、山東牛といつたものから、日本で余り見ない魚類、或は河南料理をつくる時には河蛇の如き物珍らしい材料を、大きい一抱えもある丸太の俎の上で、むざむざ切つてゐる。
 しかもその包丁といふのが、六寸大の鉞形のものや、或は一尺大の厚ぼつたい長方形のもので、それを軽くこなしてゐる所などは、支那でなくては見られぬ荒らごなしの場面である。

                                                       
 田舎の宿では、奥の裏口に豚が飼つてあつたり、鴨子<ヤウズ>が飼つてあつたりなど、その生きものを見て         
ゐては御馳走もうまくないと思はれるのは日本人の気持だけで、あちらの人は平気でこれを屠り、又料理をして無雑作に客の食前に出す。
支那宿では莱館に出かけるよりも、番頭達に頼んで、手製料理でやつてもらつた方が安くもあり、その間に得る所も多いのであるが、この邊は支那宿を我が家の如く考へてゐる者でなくては、一寸難しい相談であらう。

        ○

 支那宿に逗留してゐると、隣室には孫先生、その先きの部屋には唐先生などと、五寸位な墨塗の札が、部屋の入口に掲げてあるのが見える。大規模の宿になると、三階四階五階夫々廊下に沿ふて、懐                                 
しげな名札が幾十と読まれる。何れも脹房の掲示板に見えてゐる泊り客で、夫々省名が解つてゐるけれ共、役人であるのか、商人であるのか、漫遊客であるのか、その邊は解つてゐない。壁から洩れる話声の調子を聞いてゐると、孫さんは廣東語で話してゐるやうだし、唐さんの方は品のよい北京語で話合つてゐるといつた風で、廊下で出くわしても、安心の出来る紹介者を得ない限りは、表面の挨拶くらゐはしても、さう立入つて話合ふ譯には行かない。
 しかし田舎の小さい宿になると、一部屋に二人泊るやうに、寝台が鍵の手に並ペられてゐるといつた有様である。旅の疲れた足で、黄昏時の城内に這入り、最寄りの宿を訪ねて、部屋の交渉をする。
『老班、頼むよ』
『相客がゐてよければ寝台はありますが』
『それで結構』
 船の客室と思へぽ、見知らない旅人の同室も、何んら苦痛なものではない。のみならす不案内な旅先きで、宿の一室に相客と泊り合せることは、寧ろ色々な点に便宜が得られる。事情の解らぬ事を質問することも出来れば、都合ではそれから先きの旅程を打合せて、一日や二日行動を共にすることも出来る譯である。どうかすると宿で共に食事をあつらへたり、又出かけたり、相手の妨げにならぬ程度に、遠慮しないで思ふ儘を語つて見るのがよい。存外はきはきと受け答があつて、宿の夜話は意外   
にも得る所が多いものである。

         ○

 支那宿の夜は、泊り客に對して恐れを抱いたり、疑心暗鬼を持たない方が、支那宿の実際の価値を體験し得られるのである。日本人は兎角心に立て隔てをつくり、接近する事をさけたがる傾きのあるのはよくない。若し来客などがあつて、取次ぎの名刺が持込まれた時は、喜んで辞を低うして面会すべきである。
多少の言葉が出来れば、次から次へと話題もふえて、結局支那宿の興味を増して来る。                    

 しかし宿の取次ぎは、自分の不在の時など存外冷淡で、強いて来客の意思を尊重し、帰宿後報告をしてくれる場合が少ない。それ故若し自分で宿に人を訪ねる如き場合は、取次ぎを當てにせす、手紙で書置きをして置く方が確かである。不在中の電話など、殆んどこちらへ意の達しない事がおきまりである。さういつた取次ぎの方面は.支那宿は誠に頼りない。不在中に買物を届けさせる場合にしても、帰る時刻を告げて、兎も角待たせて置く方が間違ひがない。支那宿はその点では、駅の待合所のやうな感じがする事を承知してゐなくてはならぬ。

         ○

 宿に滞在中.客の名刺を手にした場合は、第一回目はこれを貰つて置く事はよいが、二度目から後は、恭々しく立つて、両手でこれを客に返すのが禮である。田舎の名士、村夫子などは、訪ねて来る時には七八寸もある紅唐紙の大名刺に、木版で墨色黒々と印刷したものを持つて来る事がある。近来、白の普通の名刺に段々と變つて釆てゐるが、しかし山寺の禅僧とか、田舎の土豪あたりには、その名残りをとゞめてゐる。支那服のポケットに入れるには、形がくづれて困る。之を二つ折りにしたり、不體裁になるのはいけないから、童子をつれてわざわざ名刺を持たせて来る。

   ′
 自分の手元にも、湖南の学者で戯曲通の、故葉徳輝先生や、叉香港の謝家寶先生の大名刺を始め、幾枚かを思ひ出に蒐集してゐる。かういつた紅の大物は、二つに折ることは最も禮を缺ぐ譯であるから、何處迄も廣げたまま卓上に置くのである。
         ○
 支那宿に落着いて、暫く此處を根拠に活動しようとする際、先づ第一にぶつかるのは、乗物の問題である。
 田舎の轎子や驢馬はもとより、馬車にしても、一輪車にしても、或は民船にしても、これらの交渉は大體旅客自ら當らない方がよい。都会で人力車、自動車をつかまへるにしても、矢張り宿の番頭の手で、顔馴染みのものを傭はせる方が、多少賃金は多くつくけれ共、凡てにつけて安心である。若しやのことのあつた際に、これが責任を持たせることも出来るし、人柄も解つてゐる点で、何處となく安心が出来る。下手に安上りなことを考へ、片言雑りで自ら交渉などして、、辻凄の合はぬことになつた話は、よく聞く所である。日本旅館にゐて傭はせると、日本宿の格式を勘定に入れるので、これは又遥かに高くとられる。

 幾ら何んでも無言の行では、行つた先きで下りたとしても、待つてゐるべきか帰つてよいのか、その時の都合でどうなるか解らぬといふ時など、筆談では相手に解らぬから、多少の用語を心得て置くに越したことはない。しかし車賃は、何れにしても宿に帰つてから拂ふのが、間違ひがなくてよい。
しかし支那宿のたちのよくない番頭にひつかかると、こちらで目的地へ行かうとしても、乗物を賛成してくれないで、やれ途中に土匪が出るの何んのと、口實を設けて、立派に午後往復の出来る所を、今一泊させようといふトリックにはめられる客も少くない。殊に田舎の淋しい駅前の支那宿や、外人を取扱ひつけてゐる中西旅館の主人などにはその手が慣用手段となつてゐる。

 最近自分達も、山東曲阜駅の前にある中西族館の主人武といふのにこの種の罠にかかりかけた事があつた。駅に下車するなり、取りきめて置いた馬車の馬を、車台から取りはづさせ、馬天を睨みつけてゐるといつた態度である。結局一部屋借切り、鞄を置くこととして承知をさせ、再び馬をつけさせて薄暮の泗水を渡り、十八町の田舎道を曲阜城へと急いだのであつた。かういつた時には、何んら途中に故障はなくても、旅人と見るとうまい事をいつて罠にかける事のある点に、肚をしめてゐなければならぬ。

          〇

 支那宿の泊り賃は、その宿の格式にもよることであるが、結局部屋料を差すものである.例へば杭州西湖畔の新新旅館の如きは、水を隔てて黄鶴亭と相対してゐる三階ベランダ附の最上の部屋が、一人前八弗、但し二人部屋であるから、二人同宿すれば六弗宛である。これを最上の客室として、以下四弗三弗二弗から、一弗七十五銭一弗四十銭の一人部屋等もあり、その最も廉な室にしても、八畳の間の廣さがあり、洋風のベッドに洗濯をした寝具が、小ざつぱりと具へられ、椅子テーブルも無論具備してゐる。銀相場を換算して見ると、最近日本金の六十銭にも當らないのであるから、日本の木賃宿と相去ること遠くない譯である。
 名所旧蹟などのない田舎の小さい宿になると、最上の部屋が一弗内外、安いので三四十銭、極端なのになると十四五銭のものもある。これとても弾力性のある棕梠張りの寝台に夜具もついてゐて、四季蚊帳のついてゐることは、前に述べた通りである。
 上海の一流所の支那宿は、先づ大中華、大東旅社、東亜旅社、恵中あたりで、極上が十五弗位から十弗位、普通は五六弗の所である。しかも部屋は大きいのになると、三十畳位のもあり、十畳位のもある。寝台は一つ又は二つ置かれ、比較的清潔である。風呂も洋式で、いつでも這入り得る設備になってゐる。風呂のつかない小さい部屋は、二弗半から四弗まで、日本金にして一円から二円までの間で、部屋教が非常に多い。しかし大抵皆満員で、余程前に明くのを待つて約束をしないと、部屋がとれない。しかし一品香、恵中の如き従来の旧式の支那宿では、価も廉で、応接間娯楽所なども、支那式..
                                                                                                                                                                                      ヽ、
に出来てをり、自ら違つた味ひがある。虹口<ホンキュウ>方面には、北四川路に虹口大旅社といふのがあって、菜館を兼ねてゐる。これも亦部屋が多くて、價も高くない。

         ○

 一般に支那宿は、呑ん気な事はこの上もなく、趣味もあり、安くもあり、殆んど申し分はないのであるが、中には公安局の臨検を五月蠅がる人があつたり、叉その臨検に来る事を全然知らない人もある。禁制品を持込んだり、ピストルをしのばせてゐたりすると、甚だ穏かでないとして目をつけられ.たり、書入れの多い地図を携帯してゐても、一種の眼で見られるから、そんな事はくどいやうだが注意を要する。大した大金を持たない限りは、余り鞄に鍵をかけて、大切さうにしてゐる事も考へものである。なるべく無雑作な態度で、公安局方面に障りのないやうにしてゐる事が、旅行の要領であり又宿に対する印象を悪くしない方法でもある。
 以上述べ来つた所は、支那宿に関するその特徴の要点である。とまれ支那宿は、何處迄も支那気分本位で、努めて自らこれを味ふ熱心さがなくては、長続きがしない。又親しみも起らない。田舎では止むなく支那宿に我慢しても、都会地に来ると洋式ホテル、日本宿を求め捜し、これに打ち寛ぎたい気持になる者もある。洋式、日本式、各々寛ろぐ上からいへば、夫々美点長所はあるが、経費の点ではかなり開きがある。其の上支那宿の如く.呑ん気な支那式の風韻に接する事も望まれない。尤もこれはその人の翰墨的な気分趣味性の如何にあることで、他から強ひる譯には行かないけれ共、郷に入れば郷に従へ、支那に入つて支那宿に泊することは當然で、さうしない場合、支那に入つて支那を見る目を大半失はれることは、再三述べた所である。

         ○

 支那宿の特徴は、時折り大客廰の廣間を利用して、婚禮の賀筵、被露、其の他宴会場の申込みに應じてゐることである。金銀紅緑を飾り立て、門には美しい花飾りのア-チをつくり、催し主の名前やら、目出度い賀聯の文字もおごそかに、往来を通る行人が物珍らしげに這入つて来るのに、よい気持で、急しげにその仕度に余念のない晴やかな、場面をよく見る。近来は、相當な土豪大官ならいざ知らす、中流どころではなるべく経済的にと旅館の設備をかり、料理は城内一流の家の出前で、儀式に次いで奏楽の賑はひ、酒池肉林の歓楽気分を漲らせるといつた華やかさを見せてゐる。
 最近蘭亭曲水を訪ねる途上、紹輿族館に泊つたことがある。その頃この紹輿飯館は、この邊りの共産徒党のために、見る影もなく荒されて、廓上廊下も見すぼらしく、仮寝の夢も乱され勝ちであつたが、丁度その翌朝、夜もまだ明け初めぬ頃であつた。花模様に金色も麗らかな二尺大の赤蝋燭数對を初め(華燭の典とはこれからいふ)紅の緞子の品のよい夜具、花嫁用の紅の皮箱、その他見る目も華やかな色々の調度類が、続々と持込まれて釆た。やがて花嫁が紅轎で、仲人に守られつつ乗込んで釆る。
丸ぽちやな母親が、つゞいて轎子から現はれる。瑞雲棚引く旅館の中庭は、金銀紅緑紫黄の大變な取り込みで、我々泊り客も、よい機会に目の正月が出来た譯であつた。
         ○
支那宿の夜は、麻雀で夜明かしをしたり、泥棒に寝ずの番をつけたりなど、遅くまで更かすのが常なので、賑房自身も自然夜が遅く、そのため朝はゆつくり客と同じ位まで寝てゐる。客が旅程の都合で朝一番の火車などといふ時は、前晩に勘定をすませて置くべきである。それと同時に、よしんば朝飯代を拂つて置いても、事実は出来ないのであるから、寧ろ朝飯は宿を出て駅に行く途中、又は駅の付近の采館で、時間の都合を見てやつた方がよい。支那宿の朝は、事務的な行動をとる事には調和しないし、叉不便な点も多いのだから、客の方でも余り當てにせぬがよい。係りのボーイなどには、余程八釜しく前晩から注意をして置かないと、これを頼つてゐて失敗する事が少くなくなく、又早朝に人力車自動車を呼ぶのも、仲々厄介である。しかし大都会は、朝寝坊も多いかはりに、早起きの者もあるのだから、都会地の朝の出発は、本人さへその覚悟でゐれば、さまで難しいことではない。

         〇

 支那宿の夜は、情緒纏緜で、大旅館になると、イルミネーションの不夜城を呈し、ネオンサインに輝く歓楽場には、新派旧派の支那芝居、寄席、手品、茶舘の類から、屋上庭園の逍遥など、殆んど深.夜まで胡弓奏楽の音が絶えず、屋上で南瓜子<ナンコワツ>を噛りつつ、友人と夜を徹する者も、夏の夜などは少くない。上海では又夜半のダンスホールであるカルトンカフェなどが、旅館の延長地帯として賑はひ、.殆んど世界各国人がこれに出向いてゐる。尚田舎宿にした所で、附近の寄席に出かけて、面白い落語で笑はされたり、熱茶を啜つたりしてゐる光景は、よく見る所である。
 又公然の秘密になつてゐる阿片室が、都会田舎の区別なく、夜の後房には大抵用意されてゐる。主人と懇意になると、その煙の香りも懐しくなり、宿の印象も一段と深くなつて、愈々支那気分の本當の探い所に引き込まれる感じがする。
 支那宿の中には、魔の宿ともいふべきものがあつて、何ものか解らない一種の魅力を持ち、それに                                                                                                                                                                
引つけられて、抜き差しならぬ破目に陥るる遊冶郎などがかなりある。殊に支那宿の誘惑は、例の野鶏の部に属する手合が、胡蝶のやうに麗しく、花弁のやうに気軽るな扮装で、取替へ引替へ廊下に出入して来る。宿のボーイ達も、それとぐるになつて、コッミッションを稼がうとするのであるから、持ち掛けやうも頗る巧みである。軽く受流してゐると歌でも一曲吟じさせてくれと押売り的にやつてくる。ポケットから品目の料金を列記したものまで出し、梅蘭芳のこわ色を六十銭、陳徳林のが八十銭などと、うつかりしてゐるとつい引込まれる気にもなる。兎も角支那宿の夜は、日本には見られないエロ・グロ気分の濃厚な天地で、支那の旅には、最も思ひ出の多い一席である。

         ○

支那宿のうちには、下宿屋風の公認宿を公寓<コンユウ>といつてゐるものがある。北平には大興公寓<ターシンコンユウ>、北京公寓など頗る多く、学生又は長逗留を必要とする者が、これに宿をとつてゐる、品行方正な学生にとつては目に毒であると思はれるやうな手合が、白昼門を出入し、奥まつた後房までも侵入して来るので、余程堅固な者でないと間違ひが生じ易い。中には公寓を看板に掲げ乍ら、その實曖昧宿の資格を有するものもある。
 又船着場では、船宿専門の魔窟が各所にあつて、船の着いた月夜など、船員に誘はれて路次を這入つて見ると、いきなり門に更紗の暖簾なんかを掲げ、薄暗いささやか豆洋燈をともして、奥の院に怪しげなのが、訛りのある方言で、客を呼ぶといつたなまめかしい光景である。
又四川の奥地では、楼上の客室に客をとめ、楼下は大室の土間として、これに西蔵、雲南方面の薬草その他の霊薬剤を大袋のまま所も狭い位に並ベ、霊薬剤の一大市場を演ずるといつた宿もある。

        〇

 支那の内地に奥深く旅して、田舎町に行暮れた時、或は田舎の船の途上機関の故障などで、碼駅の夜に着いた時、その折角着いた田舎町に、頼りの宿屋が一つもなく、その上勝手も解らないとなると、施す策も全くない。心細さや恐しさに、泣きたくもなるであらう。しかしこんな場合に出くはしても、尚四つの方法がある。第一、曖昧屋を見つけるか、第二、路上の行人に事情を打明けて同情心に訴へるか、第三、お寺を見つけ出すか、第四、野宿である。この四者の一つを撰ぶことによつて、明日の旅を勇気づけてくれるであらう。
 夏の安微の山中遠く行き暮れて、石徑に鞄を枕し、文字通りの夜営を體験したこともあるが、却つて気楽で面白い。蚊に攻め立てられる苦労はあるが、身に何んらの不安もなく、天地即ち枕衾といつた感じがひしひしと身にしみる。
 又或る時は、山中深く行人に出会ひ、自分の行く先きには宿などはないと聞かされ、前晩の支那宿まで、山道を引返さうと決心した所が、旅は道連れ世は情、眞の心の美しさはいつの日にでも忘れられない。
『まあお待ちなさい.隣りの山里に知るべがあるから一夜の宿を乞ふて見てあげませう』
と、見ず知らすの旅人の自分をつれて、わざわざ土豪の家へ心から紹介してくれたこともあつた。
雨露をまぬかれぬ旅の枕に、心嬉しい夢を結ばせてくれるなど、存外ゆとりのある田舎人の風懐が偲ばれて、今に至るも懐しい。
 宿のない田舎町に行き着いた時は、山麓の禅寺を訪ねるのが普通の方法である。しかし山寺のない所に出くはしても、困った時に出る智慧は、却つて平凡な支那宿にぶつつかるよりも、奇抜な體験をすることが出来、一層思ひ出を深くするものである。
         ○
 排日の八釜しい時は勿論のこと、平素でも支那宿に行く時に、洋服を看た日本人の連れがゐると、世間體を慮り、時に、宿の番頭から断られることがある。
「相済みませんが、界隈の青年達が押しかけて来ますので、はい、窓を壊はされたこともありますので、済みませんがどうか・・・・」           
揉み手をしながら、事を別けて話されては、是非にともいひ兼ねる。東洋人の洋服や鞄が、支那の内地で崇られることは夥しい。
                                                            
 先年も山西省の太原・柳巷街の采館にゐて、その城内第一の四美花園<スーミーフォアユアン>へ数日間の宿をとるために 衛門の謝先生と一緒に行つて頼んで貰つたことがあつた。
 所が洋服先生と一緒だつたので、まんまと断われたのである。
支那の旅は支那服支那帽ですペきことは前にも述べた所であるが、排日の八釜しい土地に行つても自分は宿帳も支那人名前で、無事に通つて来たこともある。
 尚江南の田舎の旅で、夜遅く船で下行しょうとして、船頭に断わられたことがある。土地は全く不案内な山里である上に、白黒も分かぬ闇夜のこととて、心淋しさが先きに立つ。漸く山下の石橋の袂に錨を下ろしてゐる蓬窓の船を見出し、船頭を呼び起して一夜の宿を乞ふた。寝てゐたものであらう、
灯もなく、流れの音のみ馬鹿に高い。所が胎頭は、頑として乗ることを肯んじない。それを説き伏せる迄の苦心は、今も尚忘れすにゐる。

          ○

 支那の宿は、都会であれ田舎であれ、なるべく愉快にその一夜を過さうといふ趣味的な態度で、思                                                                         
ひ出深い印象を得ることに心を配るがよい。最近蘇洲から太湖巡りを思ひ立つた時、光福の尋梅旅館<チンメイリュクワン>に泊した事があつた。そこの主人の気持を今に忘れずにゐる。蛇足ながら附言して置こう。 
 蘇洲の邊りで梅の名所は、有名な鄭尉の梅林である。蘇洲の胥門<シイメン>の碼頭から、西に運河を辿つて木瀆<モードー>に出で、霊厳山下の石工の多い両岸を見て、西北に水路を取れば、                                               
善人橋<スイニンチャオ>の碼頭に着く。こゝら邊りから、田舎弁の乗合客が攸々とふえて、船中は一入賑ふて来る。

『光福では宿屋は何んといふのがよいかね』
 隣にゐた人のよささうな百姓らしい爺さんに、訊ねて見た。爺さんは、先程から向ひの嬶さんを相手に、大きな声で冗談をいつてゐたので、多少心安立てがあつたのだ。
『さうですね。さうさう福渓旅館、大東旅館といふのが町にありますよ。それから場末の方ですが、尋梅旅館といふのもありますがね。』
『尋梅旅館? いい名だなあ、それはどう行きます?』
『町の賑かな所を真直に行きますと、橋があります。その次を左に這入ると、すぐお解りです。』
 光福の町外れの淋しい碼頭へ着くと、爺さん達に『さようなら、御機嫌よう』を取交して、教へられたまゝの道を歩いた。荷物としては小さい手提籃だけなので、何處を彷徨ふにも気が楽だ。やがて橋に来た。高壁の狭い石徑に沿ふて、左に約二町、尋梅旅館の看板が見えた。
 田舎宿としては割に大きい方で、街の目抜きで見た福渓、大東などの旅舘に校べては、余り明るい方ではないけれど、何處となく落着きがある。門内の左右の壁に掲げられた梅の聯も嬉しく、突当りの大室には、八仙卓や、阿片台や、紫檀の大きな十景椅子など、堂々たる客廰で、脹房の一室も側に見える。
『老班。』
と声をかけると、主人が出て来て挨拶をする。ボーイを呼んで、熱湯を洗面器で運ばせる。梅を尋ねる吟客を取扱ひつけてゐるだけに、何處となく垢抜けて懐しい。
『光福の梅林を見に来たのだが、この宿のことを聞いてゐたので、とうとう深入りしてここにやつて来                             
た。明日はこの邊りを見て、更に洞庭<ドンティン>の方へ遊ぶつもりでゐる。寺巡りが出来れば、それもやつて見たい。』
 と熱茶を啜り乍ら主人に話すと、自分の気持が解つてくれるらしい。
『今はふさがつてゐる部屋もありますが・・・・』
といとも慇懃に、部屋を案内してくれる。どの部屋も、梅に因んだ詩や、知名の古人が描いた南画の                                                                                                                                                                                                                                           
軸物などで飾られ、流石風流韻士を遇する気持も伺はれる。
 自分は例によつて、中位な程度の部屋を選んだ。主人の部屋に近い一室で、部屋料は七十銭、酒銭その他を加へても、九十銭にはならない。しかし寝台も小綺麗で、夜具、枕も洗濯したものが具へられてゐる。殊に脹房に近いのは、何かにつけて、便利である。別に荷物がある譯ではなし、田舎の遊歴に贅澤は禁物である。膝を入れるに足りれば・・・・といふ事は、自分の行脚の掟でもある。
 部屋の取りきめが済むと、又客廰に戻つて、主人を相手に四方山話に時を過ごした。玄墓山、老虎洞、石楼寺、三歓堂、観音寺、虎山寺、七眼泉、五雲洞など、地方の名所旧跡から、禅寺禅僧の話など、主人の風懐も偲ばれる。偶々来合せてゐた主人の友達も、仲々の物知りで、茶の香りの高い中で地方の歴史伝説から、梅林の話、柏で有名な柏因杜の司徒廟の珍らしい歴史談まで、話は話を生んで                                                                       
行く。そこへ奥の上等の部屋へ、二三日前から泊つてゐる上海の三井洋行の買弁父子も加つて釆た。
 息子の方は日本語も出来るので、上海や日本の話も出で、尋梅旗舘の客廰は、正に梅の香のする春である。
 こんな話をしてゐるうちに、自分と主人は全く翰墨的な気持でむすばれてゐた。食事に出かけやうとする自分を引きとめて、『先生、奥の一番よい部屋を提供しますから、御遠慮なしに替へてくれませんか。
 部屋料は今のままで結構です。先生とは老朋友<ラオポンユウ>に願ひたいのですから、是非共さうお願ひしたいのです。それに脹房に近いと何かとうるさいでせうから。』
と心が言葉に現はれてゐる。そしてこちらの返事も待たないで手提を奥へ移さうとする。
『自分は梅林と禅寺に心があるだけだよ。宿では主人と語つて、地方の歴史や伝説を聞かせて貰へば                                                                                                                                                                                                                                
これ以上の待遇は願つてもゐない。それに奥の部屋は綺麗だけど、自分にとつては不便だから。』
『それはさうでせうけど、私の気持も買つて下さい。・・・・・よいぢやありませんか。』
『いや、それよりもこの邊の学問のある禅僧を教へて貰ひたい。これはこちらからお願ひしたいのだが・・・・』
『残念ですね。どうしても部屋の方は駄目ですか。禅僧なら私の親しい人がありますから御紹介申しませう。』
といつて、次ぎのやうに墨黒々と書いてくれた。
  五雲洞 勝堂大和尚
 かやうにして部屋を替らなかつたので、主人は自分の親切が通らないとでも思つたのか、こんどは自分の部屋に自ら出向いて釆て、部屋の拭き掃除をボーイに命じたり、鍵の始末を念入りに教へてくれたり、電球を替へでくれたり、到れり盡せりである。夕方の食事から帰つた後も、遅くまで話に努めてくれ、宿の主人の程度を越えて、十年の知己の如くである。自分も脹房の中までも自由に出入し熱茶に点心をとりつつ、語り明したのであつた。
 其の後今日まで、手紙の往復までしてゐるが、梅の季節になる度毎、この尋梅旅館の主人の気特が馥郁として自分の心に蘇つてくる。江南の田舎宿の風韻を、今に至るも懐かしんでゐる。

(後藤 朝太郎著「支那及満州旅行案内」<春陽堂版・昭和七年発行>所載)

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2013年6月 1日 (土)

隅田川、自転車下り、菓子めぐり

向島~佃島、東京の下町では気取らぬ餅菓子が元気一杯

うららかな日差しの中、隅田川べりにある和菓子を食べに走ってみた。いずれ劣らぬ実力派が揃い踏み。
その味もさることながら、完全手づくりだからこその瑞々しさ。自転車で出かける”小さな旅″はいかが。
      
                               

志”満ん草餅ー向島ー
明治2年から草餅一筋。季節で微妙に
移ろうよもぎの香りも、またよろし

●東京都墨田区堤通1ー5ー9 
 ℡03-3611-6831 
  営業時間:10時~17時(売り切れで16時頃に閉めることも多い)
 水曜休み  電話予約可。
            

「あんこと餅を好む者よ、下町へ釆たれ」。隅田川の横をキコキコと自転車をこぎつつ、私は思う。
 下町には、おいしい和菓子屋さんが多い。隅田川を渡ってもよし、渡らずともよし。とにかく川の両岸にハイグレードな和菓子屋が点在しているのだ。
           ′
 その隅田川両岸のお菓子屋さんを結ぶ、道を私は勝手に”餅街道”と呼んでいる。
和菓子の中でも特に、とりわけおいしい餅菓子 - 草餅、大福、お団子、それから求肥を使ったふに-っと柔らかいお菓子などなど-が多いように思うからだ。
 その餅街道の第一軒目は、「志”満ん草餅」。近ごろ、草の香りのしない草餅が多いとお嘆きの貴兄に……と講釈をたれたくなるような、プーンとよもぎの香りのする、本物の草餅だ。原料となるのは、四季を通じて手に入るという千葉産のよもぎ。そのフレッシュなよもぎがふんだんに使われたきれいな若草色の草餅は、毎日何度もつくられ、そのつくりたてがつくるそばから売れていく超人気の商品である。
 10時の開店に合わせて行ってみて、驚いた。朝っぱらから、まあ、人が来ること来ること。「すんません、あなたがたはどこから湧いてきたんです?」と聞きたくなるほど、ひっきりなしにお客さんが訪れる。交通の便がいいとは、決して言えない場所であるのに、みんな「草餅が食べたい」というひとつの目標を持ってわらわらと集まってくるのである。すごい。
 草餅はベーシックなこしあん入り草餅とまん中がへこんだあんなしの草餅の二種類。あんなしは、香ばしいきなこと白蜜をかけて食べる。草餅の香りだけを味わいたい時は、きなこ抜き、白蜜だけで食べてみるのもグーである。
 裏口から入って製造の現場を見せていただく。 「あーぶく立った煮え立った」という歌みたいな様子でぐつぐつとあんこを炊いている大きなお釜、「お餅って杵でつくんだよなあ」と改めて思い出すような石臼と杵が並ぶお仕事場でご主人は、さっさかさっさか手早く草餅をつくっていく。
 すべてが、まったくの手作業で、あんこも自家製。 今やあんこは業者から買ったほうが安いというご時勢だが、「業者のものは値段も半分だけど、味も半分」だということで、店のお釜で炊かれているのだった。
 「店名の由来は、おいしくつて、みんなに自慢できるような草餅、ということですか?」と尋ねてみたら、「ええ、でもそれだけじゃなくて、人に贈る時にも自慢できるような草餅を、ということでもあるんです」とのこと。こういう自慢なら、いくらされてもかまわないと思う。

徳太楼ー浅草ー
 ここを知らぬは、江戸っ子の恥!?
”眼からウロコ〃の、きんつばの白眉あり

●東京都台東区浅草3-36-2
 ℡:03-3874-4073
  営業時間:10時~19時
 日曜休み(祝日は不定休)
 夕方に買う場合は予約を。 浅草のお祭りどきは赤飯専門となり、和菓子はお休みにな  る。
 

「志”満ん草餅」のある墨堤通りから、隅田川沿いのサイクリングロード(と私は勝手に思っているが、歩いている人も多い)を走り、言問橋を渡り、そのまま言問通りを走って浅草寺裏手の料亭街の中「徳太楼」へと向かう。
 創業明治36年の老舗「徳太楼」の目印は、店先にある大きな柳の木……であったが、去年の秋にデーンと倒れてしまったそうで今はない。 さて、ここは私のきんつば開眼の店。  
 もともと、きんつばのことは憎からず思っていたが、数年前、初めて「徳太楼」の小ぶりで上品なきんつばを食べた時は、「これは、きんつばの女王さまだ」と思い、感動した。しつとりとしていて、ほの甘で、人が見ていなけれ ぱ二つ三つと食べられてしまうおいしさだ。きんつば食べてびっくりというのは、あとにもさきにもこの時だけだったと思う。なんというか、きんつばに″格″があるのだ。 
 一日に千個がつくられるというきんつばは、近所の粋筋のお客さんも多い。
 また、「『徳太楼』のきんつぱをおみやげにつけてね」と言って、料亭に通ってくる人もいるという。
 その気持ちはすごくわかる! と言いたいが、私は料亭には行けないので、きんつばのことだけ同意しておく。

 きんつばだけでなく、北海道産の上質な小豆でつくられるあんこ、そのあんこを使った豆大福が、これまたおいしい。
 大福とは思えぬような上品な味と言ったら大福が気を悪くするだろうか。
 形はいわゆる丸い大福とは違っていて、板状の豆餅があんこにくるっと巻き付いている。もっちりとしたお餅と、ふっくら煮られたあんこの取り合わせが絶妙だ。

 それから、もうひとつ、お店の人に「おいしいですよ……って自分で言っちゃおかしいわね。でも、おいしいわよ」
と奨められて、買って帰ったお赤飯だが、これが本当に良いものだった。小豆ではなく、ささげのシブを上手に使ったお赤飯で、お赤飯ってこんなにおいしいものだったんだな-と思った。
 だが、いつでもあるものではないらしい。ひゃあ、ラッキー。

 
 

お可”わ-雷門ー
卵たっぶりの皮に餡がびっしり。
風格のあるどら焼きは、おやつの王様
こぢんまりした店には、手間を惜しまぬ主人あり。 温もりのある味がいい。

     
●東京都台東区雷門2-6-4 電話03-3844-4748
営業時間/10時~15時 日祝休み たとえ少量でも予約をしたほうが賢明。餡は3種類に均等に分けられるが、指定もできる。

さて、自転車は浅草六区映画街を抜けて、雷門通りを越し、浅草通りへ。
 次なる目的地は、泣く子も黙る、どらやきの「おがわ」である。
 「おがわ」のどら焼きの評判は、下町に移り住む前から聞いていた。いざ、蔵前に越してきて、「わ-い、ご近所だー」と午後にのこのこ出かけていった私は、そのたびに「どら焼き売り切れました」の札にガーンとし、何度目かに少しは学習して午前中に買いに行き、やっと口にすることができた、いわば高嶺のどら焼きだった。
 ここのどら焼きは、小豆、白いんげん、えんどう豆のあんこの三種類。それぞれの豆の味がしっかりと生かしてあって、あんこの存在感の強い、どつしりと食べごたえのあるどら焼きだ。
 毎日、つくって売り切って、というきれいな商売ゆえに、早い日だと午前中いっぱいで、すでに買えなくなってしまう。
 激しい競争を勝ちぬかなければ、口にできない……と、こう書くとなにやら厳しいどら焼き道のようだが、確実に手にいれたいのであれば、電話予約をすればいい。

 ところで「おがわ」のトレードマークは、うなぎ。 なぜ、どら焼きなのにうなぎなのだ? と不思議に思われる方もいると思うが、もともとは、このお店はうなぎ屋さんだったとのこと。 戦後に、今のご主人が和菓子屋さんに商売を切り替えたのだそうだ。
 さて、浅草通りをはさんで、蔵前寄りに、もう一軒の「おがわ」がある。 こちらもうなぎのマーク(頭の向きが違う)。聞けば「おがわ」のご主人のご兄弟が経営するどら焼き屋さんだった。 こちらはやや、あっさり風味。どちらもおいしいがタイプは全然違うので、食べ比べてみて下さい。

ニ葉家ー佃ー
 たくさんの種類を少しずつ手づくり。
 小さな店なればこその名物がずらり並ぶ。

●東京都中央区佃2ー14ー3 電話03-3521-2830  営業時間/9時30分~19時 不定休。 お菓子がひと通り揃うのは11時頃

 餅街道の最後は、ちと距離があるが清澄通りをひた走り、佃の「二葉家」に向かう。
 ここの名物は佃もち。ふにや-、ほわ-つとした求肥に干し杏が散らしてある、心なごむお菓子である。
 求肥というのは、一見、地味なもののようだが、実は求肥ファンはかなり多いのでは、と私はにらんでいる。触ってよし、食べてよし。いくらでも食べられる。求肥が嫌いだなんて人は鬼だと思う(言い過ぎですか?)。
 昔ながらの、町の和菓子屋さんいう佇まいの店には、佃もちの他にも十数種類のいろいろな名菓が毎日ぎつしりと並ぶ。もちろん、あんこもお餅もご主人の手づくり。さすが優しい風味の佃もちを考案しただけあって、穏やかな方だ。前述の三軒もみんなそうだったが、ここ 「二葉家」にも遠来のお客さんが多い。わざわざ遠くから買いにくるお客さんに喜んでもらうためにも、休日返上で、いろいろなものを手づくりで、と心がけているそうだ。                                                        

お客さんの要望でこし餡にもつぶ餡にもにもなるという豆大福、求肥にうぐいす餡と白餡を入れたうぐいす餅、桜の塩漬けがアクセントの佃まんじゅうなど人気のお菓子は多いが、羊羹好きには”ぽっくり栗むし羊かん”をお奨めしたい。
 ラップにぐるぐる巻きになったなんとも素朴な栗蒸し羊糞で、地方からの注文も多いそうだが「病院の見舞いやご老人へのおみやげにはやめてくださいね。 怒る人もいるから」とのこと。   

 
                               文・藤田千恵子 撮影・川上隆二(dancyu 1995年6月号所載)

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2013年4月21日 (日)

同級生が機銃掃射の犠牲に

 千葉県五井町(現市原市)の国民学校4年生だった45年3月初め、授業中に警戒警報のサイレンが鳴った。 授業は中止され、児童はおのおの自宅に向かった。 数分後、突然空襲警報に変わったと思うと、千葉市方面から米軍のP51戦闘機が高度30メートルくらいでの超低空で機銃を連射しながら飛んで来た。

 パイロットの顔がよく見えた。 鬼のような形相だった。 私はとっさに民家の軒下に避難したが、機銃掃射は容赦なく、私の目の前30センチほどを走っていった。

 やがて静寂が訪れた。 しばらくしてから大人たちが何かわめきながら担架を持って走っていった。 好奇心から私も後を追った。 行き着いたところを見て驚いた。 路面は血の海で、子どもが1人倒れていた。 それはなんと、数分前まで一緒に授業を受けていて別れたばかりの親友、佐藤昌夫君ではないか。

 同じクラスで席が近く、よく一緒に遊んだ。 おっとりした動作の子どもだったのがいけなかったのか。 腹部を20センチくらいえぐり取られて出血していた。 私はぼうぜんとした。 それから1週間ぐらい食事がのどを通らなかった。

 翌日登校すると、教壇に立った担任の女性教師が「佐藤昌夫君が・・・・・]と言うなり号泣した。 児童は先生の顔を正視できなかった。

                          会社社長 清水 徳久(千葉県市原市 77)

(H25・4・16 朝日新聞<朝刊>「声」所載)

 

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