2013年6月 8日 (土)

支那の飲食店(中国を愛す)

飲 食 店

                                                                                           
支那の旅行中に、忘れてはならぬ事は、その旅先きで必ず支那式の飲食店、即ち菜館に這入つて見る事である。日本の料理屋は、日本で幾らでも味はれるのであるから、よしんぽ在支日本人から、これに案内されるやうな場合があつても、こちらから場所の變更を申立てる位な熱心さがあつてほしい。
 何れの街にも、町民食堂があり、その土地獨特の料理をたべさせる菜館が出来てゐる。料理は珍奇であるし、味ひは變つてゐるし、分量もかなり多い。それでゐて、價は又驚くはど安いのである。その郷に入つて、折角の民衆料理を味はないくらゐ、間の抜けた話はない。
 日本式に味をつけた日本の支那料理では、本當の支那気分の出るきづかひはない。第一費用の上からいつても、日本の支那料理代は、その料理以外のものが、十分の六七も占めてゐて、少なからぬものが加算せられてゐる。これは店の設備、室内のかざり、税金、給料、女中の服装から、家族の生活費などの全部が、當然の諸掛りとして考へられてゐる。その高は、決して小いものではない。殊に材料に対する運賃、倉敷料などから考へても、高いのは當然のことである。
所が、旅先きの本場でこれを味ふとすれば、部屋飾りなども大したことはなく、食器も粗末で、殆んど諸掛りといふものが加算されず、眞の料理代だけの實費に近いものでよい
のであるから、その点を特に考慮に入れるべきである。ボーイのひどいのが出る位は、我慢しなければならぬ。
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 支那菜館の八仙卓に並べられた食器のお粗末なのは、我慢が出来るとしても、普通一尺に餘る無細工な竹の箸の古ぼけたのが出てゐるのを見ると、馴れない日本人は、その穢なげなのに、げつそりするといふ。象牙の箸の、殊に銀冠のついてゐるやうなのが出される場合は、富豪大官か、特別な場合に限るのであつて、民衆料理の場合は、この竹箸が先ず普通の所である。日本の竹箸と違ひ、頭も脚も同じ大きさで、どちらがどうやら解らない棒のやうなものである。その邊が、支那気分の最も見所とする点であるけれ共、もののきちんとした事を好む日本人には気に入らない。そこで日本から釆た者などは、食事をするに當つて、先づわざわざ白紙を出して箸の先きを拭いて見たり、匙をこすつて
見たりなど、まるでまじないのやうな事をして安心をしてゐる。 それをしなければ、黴菌にとりつかれるのだといつた心配さうな顔である。どうせ初めから、すべて熱く料理されたものが運ばれてゐるのであり、之にいきなり箸を向けるのであるから、その邊の心配は無用である。支那人も亦之を問題にしてゐない。日本人は神経質に出来てゐるのであるから仕方がない。
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 支那の旅をする人に、支那料理の味を賞める人は数多あるが、その料理番の料理振りや、板場の實際を深く踏み込んで見て行かうとする者は餘りゐない。しかし實際現場に踏み込んで見た為め、その清潔でない處を知り、却つて頭ごなしに悪評を放つ者がある。ややもすれば、板場を見たばかりに、料理まで食べられなくなつたといふ者さへある。支那の旅には、潔癖性を極端に振廻すやうな人は、結局眞の支那料理を味ひ得ない人である。
 支那の料理番は、頭の中で凡てを超越し、五味八珍の料理三昧に入り、目から火花の出る思ひまでしてやつてゐる。その気塊は、全く神域に出入してゐる位である。単純なうは面の清潔、不潔の点などは、始めから問題にしてゐない。そこにはグロ以上のグロの頭が働き、料理の内容としては、、實質                                             
が十分にあり、調味が完全に行つてゐれば、海碗<ハイワン>(大丼)その他の食器類の美醜のことなどは、大した問題にしてゐないのである。その問題にならない所ばかりを、日本人は神経質にほじくり出してゐるのである。支那の料理番はその無理解に泣くであらう。    
 支那料理の材料の複雑さと、調味の香気のあることは、支那獨特のものであつて、日本の刺身、酢の物、つゆ物などの行き方とは、丸きり違つてゐる。
 日本料理には、白鷹、月桂冠などの如き、日本人の口にあふ日本酒でなくては、舌に芳醇の感じが釆ない。これは刺戟の弱い料理に對し、いくら強い日本酒を持つて来ても納まらないのである。
                                                                           
 支那で発達した複雑、濃厚な料理は、支那出来のほんのりとしたぬる燗の、紹輿酒(老酒)を用ゐなければ、支那食としての味覚が納まらない。殊に時間長く、卓を離れずやつて行かうと云ふには、じわじわほんのりと来る酒でなくては合はぬ。所謂陶然と酔はせる気持は、支那酒の場合に於てのみそれが本當の意味で生れ出て来る。その間のほろ酔ひ気分は、日本酒のそれとは著しく違ふのである。
こゝに又國民性の相違点も窺れる譯である。
                                                                                        尚料理にに馴れない旅行者で、始めて支那菜館に登らんとする者は、紹興酒の中に氷糖<ピンタン>を入れて、溶かして飲むもよい。砂糖の入つた支那酒は、口常りが柔かで、殊に旅の疲れを医する効力がかなりある。しかし本當の酒客は、氷糖など入れないで、その儘乾杯又乾杯をやつてゐるのである。
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 支那の飲食店に於ける客の接待振りは、日本の料理屋のお座敷のそれとはまるきり變り、細かい微妙な所に注意するなどといふことは殆んどない。殊更らしい接待振りを示す替りに、何處迄も料理本位であつて、その價を安くするといふ点に力を入れてゐる。
 日本では料理を誂へるに際して、よい加減に見計つてくれといへば、客の心を汲み、十二分のことをしてくれるのが普通であるが、支那では責任を恐れてゐるためか、駄目の上にも駄自を押し、「それなら好みの材料の指定をしてくれ」といつて、野菜や、肉の種類まで指し示し、甚だしきは、それの目方を何匁用ゐると云ふことまでも承知させておいて、その話に出た範囲内のものだけしか作つて来ない。客が、手持ち無沙汰をして居やうが、たべ足りない顔をしてゐやうが、一向に頓着しない。
 その代り菜館酒楼に登つて、或る一定の金額で料理を注文した場合には、その最後の勘定の段となり、手をつけない饅頭などの残ってゐる教であるとか、或はそこに出された飯の箸のつけないのが幾人前餘つてゐるとかを、目で勘定し、即座にこれを総勘定から差引くのである。これは金高の方で理窟に合はない要求は、一銭たりともしないといふ、極めて厳粛な接待振りを示してゐるものと見られる。
 別段にニコニコ顔を賣物にしたり、又揉み手をしたり、お愛嬌をいつたりして猫なで声で客からチップを餘計出させようなどといふ微妙な小細工なんかは、殆んどやらないのである。その点は料理振りと同じやうに、支那人は荒つぽいけれ共純朴な處があり、又かくれたカがあり、判きりした頭が働いてゐる。殊に宴後の一座のたべ残した全部のものを取り集めて、之を金を支拂つた人の自宅へ届ける
など、日本と變つた習慣を見ることもある。その民衆料理であらうと、凝つた料理であらうと、その邊についての習慣は同じ事で、要するにこれらは、料理の支拂に對する勘定が、八釜しいための一反映であると見られる。                             .
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 支那の料理の席では、絶えす撚手巾<ネンシュチン>といつて、熱く蒸籠で蒸したタホルが、卓上に配られる。濃厚な食事が、次から次へと出されるのであるから、當然これは必要な接待方法である。芝居の席でも、又茶館でも、これを客に出すのは、南北支那を通じて共通なこととなつてゐる。
 日本では和洋食の場合には、幾ら眞夏であつてもこれが出されないのは、支那の旅に馴れてゐる自分共には、物足りないこと夥しい。
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 支那に渡つて飲食を漁ることは、旅行の楽しみの中の最大なものであらうと思ふ。しかし都会城内に味ふ料理には、例へば、蘇州には蘇州の味ひがあり、寧波には寧波、奉天には奉天と、夫々味覚に違つた感じを受けさせる。
 例へば満洲の料理には、北京料理もあるが、多くは山東の田舎料理がひろがり、こつてりしたものが一般である。寧波の料理は、浙江の料理ではあるけれ共、杭州の西湖々畔に味ふそれに較べて、どうも塩辛いところがある。日本人には矢張り蘇州料理か、北京料理などが口當りがよいと云ふものが多い。又廣東にも、料理を日本式にすればよいものがある。
 内地の片田舎に這入ると、最早贅澤はいへず、大體が農村の野菜を主とした蔬莱料理であつて、それに鯉魚だとか、猪肉(豚)だとかを取り雑ぜて、味をつけたものがよい方である。回々教の仲間に呼ばれると、所謂西域料理で、羊肉の料理が出される。これには豚の肉は、一切出されない。
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 田舎料理の舌當りは、大抵始めから地方色があるものとして、そのつもりで味ふべきであるが、殊に面白いのは、その地方獨特の地酒のあることである。ドブロクの類で、酒はひつこいが、如何にも料理の純朴さと相調和してゐる。何れの地方でも、名前だけは紹輿酒と呼ばれてゐるが、本場の紹輿酒とは似ても似つかぬもので、全く名にかぶれて味つてゐる全くの地方洒である。
 しかしたまに土豪の家庭などでは、わざわざ浙江から取寄せた本場の花彫<ホワチャオ>(紹興酒を二度醸し直した醇酒)などを出されて、びつくりさせられる事もある。
                                
 田舎人には味覚の強い紅酒、即ち五加皮<ウーチャピ>と称するものや、又北方では汾酒<フェンチュ>、高梁酒<カオリャンチュ>などが、地方的にかなり喜ばれてゐる。      
   

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 支那の旅で、飲食店に興味を持てば、なるべく昼と晩は莱館酒楼に行つて味ふがよい。市街に通人の出入する價が滅法安く、又材料も振つたものがある。穴も見つかつて、人と變つた通な料理を誂らへる事も面白からう。

  通人の行く料理屋は、  
菜単(献立表〕なども、おきまりの硝子張りの中に這入つたものでなく、二階下の一角に、釘にかけられた塵紙の十数枚を、一々めくりめくり見るのである。その塵紙には、一人前、四人前、八人前とあり、その價も定食で二三十銭から七八十銭どまり、誠に便利であつて、一度足を運べば、又と必ず引付けられる。
 これらは多く路次の中で、普通のきどつた紳士が這入りにくい所にある。從つて客の種類は、界隈の親方、兄貴連、又は食道楽の通人、或は料理屋同業者、その他高等ルンペン達が、主に姿を見せてゐる。                              
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 北支那で、冬の旅をする客は、零下十度二十度といふ寒さは普通で、その頃は蒙古風の風帽<フォンマオ>といふ、耳も顎も頸元も、全部包んでしまへる仕立方になつてゐる帽子を被り、戸外をモクモクした姿で歩い てゐる。                                                      
 菜館酒楼へ登つて見ても、部屋には煤球児<メイチュル>が火鉢にたかれてはゐるが、これとてもさほど暖いものではない。暖房の設備としてはこれが普通で、ストーブがある家などは、滅多にない。だから出来るだけ澤山羊毛の皮のついた上着など着込んで、外に出かける必要がある。しかし乾杯又乾杯の献酬が酣になると、流石に北支那の冬も暖かみを感じ、その上酒拳などを闘はして、一座は大いに賑つて来る。
                       
 北平の冬は、前門外<チェンメンワイ>の成吉斯汗料理とあつて、例の有名な正陽楼へと出かける。雪がちらつく寒風凛烈の夜、野天に焚き火で、羊肉をつけ焼きする趣きは、その左の片脚を上げて箸でつつく食べ方と合せて、如何にも北支那の冬の酒席を印象深く刻みつける。日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由井ケ濱の「濱のや」で催したのがこの成吉斯汗料理の関東に於ける嚆矢となつたのである。
 又夏のタベの菜館酒楼は、江南の水郷にあつては、都人士漁郎のこれに足を運ぶ者が随所に引きも切らない。殊に遊覧地の民衆娯楽場には、世の不景気も物かはと、相携へてこれに出浮き、夏料理に舌鼓を打ってゐる手合が多い。
 夏の観光客はかういった歓楽境の實際を、現場に這入って味ふことが何より興味の深いことである。 

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北平滞在中の北京料理漁りは、料理通であるとないに拘らず、公私の関係から、自然各方面の菜館、酒楼へ出入する機会が得られる。もと禁裡の大膳部に勤めてゐた料理人が街に出て、民間の北京料理を始めたといふことで、評判を取つてゐる東華門の東興楼などは、殊に日本人の足が多く之に向ふ。

 公使館連や、満鉄関係、その他個人で催ほされる宴会なんかも、殆んどおきまりの如くこれに会場が定められる。或は又文化事業の方とか、支那側の方から日本人を正賓として迎へる場合なども、多く ここで催はされるやうである。                                      
 それ故東興楼<トンシンロウ>は、日支人間の夜の倶楽部の観さへあり、店のもの達も
殆んどそのお常連の顔を見覚えてゐる位になつてゐる。東興楼の構へは、上海方面の菜館とは違つて、何處となく各客室の感じが重々しく、落着いたどんよりとした気分が充ち満ちてゐるのはうれしい。
 しかし餘りに近来日本人の出入が多いため、本来の北京莱の特色ある風味が、多少抜けて来たといふ 批評をするものもないではない。               
 北京料理としては、東単方面では、以前に総布胡同に燕壽堂と云ふのがあつて、賀筵の客の出入も多かつたのが、近来経営がつゞかなくなり、閉店をした。その外二三よく日本人客の出入する所もあるが、最も民衆的の酒楼で名を賣つて毎夜繁昌してゐるものは、東安市場<トンアンシイチャン>の内部にある二流三流の酒楼である。ここは殆んど客を待たせることなく、極めて活発に、又面白く、次ぎから次ぎへと卓上へ民衆料理を運んでくれる。
 例の烤鴨子の料理にしろ、又水飴を長く引いた如く見ゆる抜糸山薬<ボースシャンヤオ>の料理にしろ、北京料理の名のつくものは、何品によらず手取り早くここでは作つて運んで来る。又その側には西域菜館の看板で、例の羊肉料理を中心とした回々教の民衆料理を出す店もある。場所柄が北平で屈指の賑つた大市場の内部であるだけに、昼となく、夜となく千客萬来の景況振りである。  
 日本人のかたまつてゐる場所に近い方面で、料理店をと求むるならば、大體ここに示した程度である。
 尚更に、周囲の環境から支那気分を昧ひつつ、北京菜を戴かうといふには、何んといつても交民巷を通りぬけ、前門外まで出かけなければ嘘だ。
 前門外の方面で日本人間に一等評判の高いのは、大通りから左に這入つて、イルミネーションのア-チの光まばゆき正陽楼である。これは日本人の所謂成吉汗料理即ち烤羊肉<カオヤンロー>の料理でよく知られてゐる店である。又大通りから右手に這入れば年中不夜城の観を呈してゐる大柵欄<ターセーラン>があつて、その中程で右側にあるのが、有名な厚徳福<ホウトフ>である。厚徳福は賑かな街の中にあるが、ひとりこの店の入口は暗く、殊に鰻の巣の如く奥へ深く這入つたうちで、それと知らないものは、迂つかり行き過ぎてしまふ位である。料理のうちは河南菜で、鯉魚の料理や揚げ物類が殊に評判である。三百年と云ふ古い歴史を有する北平一流の古風なうちで、その店つき、楼上楼下の客室、料理場、材料の置場、何處を一つとつて見ても、乾隆の昔榮えてゐたうちの俤を思ひ出させ、どことなく古色蒼然たるものがある。
 その内部は、部屋数が少いので、階下のどんづまりの物置然たる天井の低い部屋や、又料理場に近い廊下沿ひの奥まつた所あたりに、白紙で壁をはり、間に合せの客室を拵へてゐるが、客の込み合ふので、こは又止むを得ないことである。
 しかし店の客を引きつくる底力の強いことと云つたら、たいしたもので、その平素如何に狭まくるしく、又込み合つてゐても、通人達は奥へ奥へと割込み、卓を囲み、番頭をつかまへ料理を誂へるのである。その時評判の二寸もない小さい手垢のついた菜単帖をもつて来る。普通の一枚紙の形をとつてゐないところが喜ばれる所である。何れも法帖の式に折り畳まれてゐて、その料理の品目は数十頁に亙つて列記されてゐる。がかなり読みにくい書體で墨書されてゐる。
その各頁は殆んど茶色によごれ、その字體も鮮明でないのが多い。けれ共度々見てゐるうちに、書き癖もわかり自ら読めるやうになる。かういつた古い老舗へ始めて這入つた観光客は、とかくその料理に馴れないために、、番頭に「よい加減に見計つてくれ」などと云ふ。でもいはれた番頭は客の味覚の程度が、さつばり解らず、又その料理についての好き好み、客の気持も解らないので、責任が持てない。そこで結局やはりこちらから盲滅法でも書いて渡すことにしなければならなくなる。支那ではいくらおのぼりさんでも、日本の料理店へ行つた時や、ホテルで定食をとつた時などのやうな式にはまゐらぬ。何と云つたつて、支那には支那式のきちんとした誂へ方がある故、それに見倣はなければならぬ。厚徳福では鯉魚が一等呼びものとなつてゐるだけに、その臓腑から骨の料理まで、實に結構な味ひを出して見せる。しかもその費用、勘定が又細かい。飯の代りに出す饅頭を二つに割つて見ると中から手品のやうに無数の細かい絲がきらきらと長く垂れ現はれ、その銀絲の味ひ、その口當たりと云ふか、何んともいへぬ程よい。日本に来てゐる北京料理にはまだこの種の饅頭(点心)の出たうちがない。
 厚徳福の料理は、寧ろ古典的な風味がたゞよひ、通人中の通人しかここに出かけて行かない。店はいつ行つて見ても相當繁昌をしてゐるが、その利益を常に料理の改善と、材料の厳選とに當て、専ら菜迷<ツアイミー>(食道楽)の味覚を満足させることにのみ努め、上海あたりのやうに、すぐ楼上の改築に取りかかつたり、大廣間を増築したりなどはしない。華客の料理が済むと、熱茶に撚手巾を出すことはいふ迄もないが、小さな紙に包んだ熱帯植物の種に、いくらか味のついたものを一袋宛出してくれる。これは橄欖の實の種であつて、食後の口中を涼しく感ぜしめ、又不老長寿の霊薬ともなるのだといはれてゐる。本當かどうか保證は出来ぬが、何分かをりがあつてよい。しやぶるには少し大き過ぎるやうに思はれる。見たところ、三四分大の三角形をなし、かなり堅い。その色は茶褐色、何れも軽く塩で味がつけられてゐる。店を出る時分に、多く客は口中にこれをしやぶりつつ出て来るのを見る。厚徳福の外に、前門外方面から菜市口あたりにかけての支那街には、新豊楼を始めとして、まだまだ新式旧式になる各種各様の菜館酒楼があり、何れも客を呼び、日本人も亦時折り店を變へて食べ漁つてゐる。
 時には川蛇料理の極めて美味なものをつくる菜館もあり。これは気味が悪いと云つて箸をてんでつけないものもあるが、恐れる必要はないのである。                                                                        
 又鴨子の美昧で評判をとつてゐる所があちこちにあり、又禄味斎の如き素菜(精進料理)で、北平一の評判を取れる所もあつたが、これは既に閉店をしてしまつた。又牛街<ニューチェ>方面ではその特色とも見られる菜館が澤山ある。それは回回教の羊肉料理で
                 
あつて、これは慣れない人はとやかうと批評するが、珍らしいものである。牛街あたりには之を安く且つおいしく食べさせる菜館酒楼が多い。

 総體に北平の所謂北京料理は、開明戯院のあたりから、南の方に行けば行く程場末になるわけで、民度の低いためでもあらう、割にうまいものが安く提供せられ、悠々一人前一元以下の安料理が、殆んど喰べ切れない程どつさり出される。北平の日本人間では一時食道楽の通人約十名が相集り、毎月一元を越えない實費で以て、移動美食倶柴部なるものを組織してゐたことがあつた。輪番の幹事が次ぎから次ぎへと物珍らしい而かもおいしい料理をたべさせる莱館酒楼を見出し、メンバーの意表に出で、通人の味覚を驚かすといつた天下太平の雅催が続けられてゐた。
 北京料理のうちにはいふべきものが多いが、變つたものとしては、この回回教の羊料理である。これは他の都城でたべるよりも、一際目立つてよく出来てゐるから、特に北平の旅で忘れてはならないものであつて、自ら進んででもこれには足を向けるべきものである。尤もこは初めから心得てゐるべき民衆料理なのであるから、部屋の設備だの食器だのと云ふものに贅澤をいつてはいけない。
 序で乍らこの西域菜館には、表看板に面白い特色を見出すのである。と云ふのはアラビア文字を示す曲線を集めたものを必す大書して出してゐるほか、屋外には尚高く棒の先きから回教徒特有の圓形の制帽を、やゝ實物大よりも大きく拵へて軒端にぶら下げてゐる。或は又その制帽の形をば、薄肉彫に看板式に現はし、これを磨いた真鍮の板で以て被うてゐるものを掲げてゐるのもある。さうかと思ふと、例のみみずの匍つた如きくねくねした曲線のアラビヤ文字で、西域菜館の意味をそのまま翻訳して、ハイカラな様式で掲げてゐたりするものもある。時には又その清眞寺の回教寺院内に用ひてゐる神聖な水瓶の形を、そのまま壁に描き、或は又石に刻してこれを看板としてゐるやうな變つたものもある。何れにしてもその特殊な料理を指して、しきりと客を呼んでゐるのであるが、一つにはその半面に羊肉の料理のうらに宗教上の誇りを示してゐるものらしく思はれる。だからもし店に喰べに這                          
入つて、回回教徒の悪口を云つたり、口を滑らしてマホメット教の批評でもしたり、或ひは教組が豚の胎内から生れたために、凡ての回回教徒は豚を喰べなくなつたのだなど云ふ蔭口でも、その耳にしたままの傳説を語りあふだけでも、ひどく店の者の感情を害し、その客の不敬な言葉を耳に挟みでもしようものなら、勘定などは兎も角として、即座退場して貰ひたいと楯突く。俄かに近所隣りの同じ宗徒まで翕合して、一大事をかもし、客は結局そこで袋叩きにされるやうな始末になる。恐しいことである。
 先年も天津の租界で、某漢字新聞が、からかひ半分の気持から、滑稽文學の欄でもとマホメットは豚の腹から生れたから云々といつた事を戯文として書いてゐたといふので、市中の回回教徒連はその記事を読むなり、固く結束して新聞社を取囲み、窓硝子を打割り、印刷機械までめちゃくちゃに壊し、再び同紙の発行を不可能に陥らせたといふ事實談もある。          
 又奉天でも、先年張作霖が或る雅宴に城内の貴顕紳士を招待せんとした時、その招待状の文句のうちに、回回教徒の気分に障る文字が挿入されてゐたといふので、連中が俄かに結束して、手ひどく抗議を申立て、結局謝りの使者として御曹子張學良を差遣はし、そして辭を低うして数萬金の賠償料を出し、やつとのこと示談済となしたといふ事實談さへもある。
 かういつたことを胸に含んでゐて、北平の羊料理を喰べに出かけるのも、又一種の支那気分である。
北平の東単は、扶桑館の筋向ひに當たり、古くから回教徒の屠羊を専門の業とする羊肉店がある。毎夜九時過ぎ人通りの少くなつた頃、店頭では、その鮮かな技術を見せては、数多の羊を屠り、生ま生ましい羊肉を数多天井高く吊し並べてゐる光景を見る。これ亦北平では餘り注意されてゐない風物の一方面であると云へる。
         
 

(後藤朝太郎著「支那及満州旅行案内」<春陽堂・昭和七年発行>所載)

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2013年6月 6日 (木)

支那の紅燈街(中国を愛す)

 紅 燈 街

 支那の旅で、最も人気をひきつけてゐるものは、怖らく紅燈街の魅力であらう。
 支那の城内には、到る所に人知れぬ風流な所があり、如何に今はさびれた町であつても、その道の 玄人筋に耳打ちして伺つて見ると、大抵その要領は得られる。
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  城内の紅燈街は、一に又斜街ともいひ、風流粋士の出入する所、たとひその規模は大ならずと雖も、 兎も角軒並み、門戸の様子などに、何處となく、その雰囲気を現はしてゐる。普通その方面の街は、 餘り賑かな街続きではなく、寧ろ住宅つゞきの、ひつそり閑とした所である。そこを通り抜けて、突 當つて右へ、又は左へ、斜に這入つた所といつた位置に設けられてゐる。大抵その道中は、ややこしくなつてゐるのがおきまりのやうである。時には例外もあるが、多くはかやうな位置をとつてゐる為 め、始めての旅の客には、友人に案内されてゐても、えらい不景気な方面へつれ込まれてゐるやうな 感じさへする。老樹茂り、厚壁の塀の長く続き、半円の瓦で、透しの図案とりどりに出釆てゐる、重                                                                              
くるしい巷をどこまでも行くといつたのが、紅燈街への道中の常である。時には又城内のうちにも、或は場末に近く設けられた曖昧屋の軒並みがそれであつたり、又船着場あたりに行つて見ると、碼頭近くの二階建の揃つてゐる一廓が、凡てその方面の中心地点であつたりなどすることもある。
        ○
 紅燈街の普通取つてゐる形式は、厚壁の高い塀に、文字通りの紅燈が掲げられ、紅緑の一尺大もある札が、門の左右に貼り出され、金文字をもつて、その藝名がうららかに書きしるされてゐるのである。                                                                                                                   
 門内には、数多の佳人がゐても、表札に出す名前は、特別の人気をひいてゐる数名の名前だけである。
 風流粋士は.かうした金文字を見て廻るだけでも、その實物に接した如き感じを得るらしいが、旅の客は、よき案内者を得て、多くは一々これが探険に這入るのである。その邊の内面的秘話は、追つてあとでゆるゆる述べることにする。

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紅燈街の中には、繁華な巷と相接してゐる所もある。紅燈の影も賑かに、軒並みの聯の文字もいと美しく、往来の遊冶郎の輿味を唆る楼上の光景や、胡弓の音、客の送迎に挨拶せる男衆の黄色い声など、始めて踏入つた旅客には、豫想にまさる面白い気持があふられる。
 支那の旅では、晩餐を宿でとる場合は殆んどなく、多くは思ひ出のために、毎夜所を替へることは「支部宿」の所で述べた通りである。かうした風情の違ふ料理に、舌鼓を打つのも決して悪くはない。
  紅燈街の料理は、平生の莱館の料理同様に、その種類、分量、又その調味も複雑である。冬時になれば、殊にこつてりしたものが卓上に運ばれる。
 支那客には、健啖家が多く、その幾ら運び来られても、譯なく片づけもし、又酒の方も随分酒豪が多いやうである。加ふるに、客に酒を進める技巧とその辞令が、又妙域に達してゐる。刺身や日本酒にきたはれてゐるだけの、日本式の風流酔士では、かうした場面に最後までのお相手を完全になし了へることは容易でない。しかし一旦紅燈街に踏み入つた以上は、どこまでも全幅の努力をして、これが太刀打をするだけの覚悟がいる。
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 支那料理の調味とその材料とは、地方によつて多少特色があり、北方の濃厚なのに此して、南方はあつさりし、殊に江南の夏の料理となると、おつゆものが多く、蝦貝などのあつさりしたつゆものを見る。あつさりしたつゆの實の取合されてゐるのは、日本人の口には懐かしい。又四川の奥地で、野采を多く用ひたあつさりした料理の出るのも、亦日本人の口に合つてゐる。
                                                                              
 年若き者は、肉や鳥の重い料理を喜ぶが、高年の客は、どちらかといへば椎茸や白木耳<パイムル>(銀耳)、白茭(江南の蘆の根で筍に代用せられるもの)、白菜などの如き、淡白なものが歓迎せられてゐる。
 しかし支那料理は、老人の隠居の味覚に合せるやう、どこ迄もよくとろかせる迄煮つめあげるので、貝類の如きでさへ余程柔かく、咀嚼し易いやうに調理されてゐる。そのために、幾ら高年の老人や、歯の悪い客でも、萬遍なく之が受け得られるやうに出来てゐるのである。
                                                                          
 放先きの支那料理は、旅の疲れを医する意味で、支那酒に氷糖を加へ、口當りのよいやう燗をして、ゆつくり味ふべきである。しかし次第に支那酒に馴れて来れば.却つて氷糖を好まなくなる者もある。
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 紅燈街の酒楼は、単に菜館本位に出来てゐるものもあるが、又中には、今少し意味のある仕掛の出来てゐる所もある。楼上楼下悉くこれ胡蝶を側に侍んべらせ、料理の方は第二段で、これを喋々哺々することに、時の立つのを忘れてゐるといつたのが多い。徒つて楼上、宴席の如きも、普通の宴会とは違ひ、設備の方も簡單である。                                                                              
壁には、林下の美人の姿を描写した美しい額縁など、風流な對聯と相対して掲げられ、
又その横にかけられた花瓶には、梅の一枝が高尚な情趣を示してゐる。
 紅燈街に案内をしてくれた主人は、始めての珍客を前に、打くだけた言葉で、表裏から佳人をからかつたり、笑はせたりしてゐる。席に現はれた佳人どもも、場面をすかさずこれに應酬し、目配せなどしつつ白い手をさし伸べ、苹果<ピンコ>の皮などむいて客の方へ差出す。その間、卓を離れたり立つたり、室内を一巡りしたり、寝台に腰をかけたり、少しも落着きを見せない。キヤンキヤンそはそはして囃ぎ返るのである。そんな雰囲気に馴れ切つて、又別の佳人をその部屋に訪ねて見ると、これは又打つて欒つたしとやかさ、その側にひかへてゐる婆の指図をもよく聞き、客のもてなし振りにも優しみがある。
 時折りその薄化粧を気にして、手鏡を取出し化粧直しなどをしてゐるのも可憐である。
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 酒席に於ける料理の喰べ方は、特に取り立てていふほどのこともないが.兎角場馴れない日本人は、自分の前の箸の置き方を、日本式に横ざまに置く。これはお上りさんのすることで、支那では無意識のうちにも、ちやんと前に縦に二本並べて置く。又日本人の多くは、小皿を枕に、或は皿の上に二本そろへて乗つけてしまふ傾きがある。支那では箸は卓上にぢかにそのまま置くのが普通であつて、卓上の汚れることなどは、少しも問題にしない。若し祝の賀筵などへ呼ばれて行つた際に、皿の上に箸を乗つけることなどは、特に戒しめなけれぽならぬ。といふのは、支那では家に死人のあつた時、佛前に供へる箸に限つて、皿の上に縦に之を揃へてのつけると云ふ事實があるからである。紅燈街など
                                                                                                                           
で、案内の主人側はそれを見、客に遠慮をして嫌な思ひはしてゐても、言葉にそれを出さないけれ共、おきやんの佳人から、ひやかし半分に詰問せられることなどがある。大いに注意すべきである。
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 紅燈街の食卓は、元来他の宴会の終つた後、二次会に目ざさるる場合が多いので、料理の方でも、簡単な便飯<ビエンファン>が多いのである。
 便飯とは、本格的食事ではなく、数品をかりに取揃へた弁当代りの飯を云ふのである。しかしそれにしても、大抵余りに箸をつけないで、辞し去ることが多い。實をいふと、果物、菓子、お茶くらゐの所で、飲食の方は簡略にすまし、音曲を催して座興を保たしめ、後は雑談やら、エロ・グロの與太話などで、打囃ぐといつたのが普通のところである。
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 紅燈街の酒は、田舎者が舞込む場合に、毒酒が盛られるなどいはれるが.これは想像説に過ぎない。
小説や芝居の上に見ることはよくあつても、事實かやうな不祥事は、滅多にないことである。又支那の酒そのものも、酒客を狂態に陥らしめる程のアルコール分はなく、至つて弱い。しかし特別の酒豪や、労働者階級の者は、五加皮<ウーチャピ>の如き強い赤酒を用ひてゐる。
又紅燈街の酒席の御馳走の一つに、酔蟹と云ふがある。これは江南地方の料理の特別なものであつ                              
て、こは蟹の本場の安徽の蕪潮<ウーフー>に有名な料理である。長江から取つたままの生きた蟹を、たぎらせた酒の中へいきなり落とし込み、料理したものである。賀筵の席には、殊にこれが珍重されてゐる。上海の三馬路陶楽春あたりにも、酢蟹を呼び物とし、江蘇鎮江の料理人が、これをこしらへてゐるとのことである。江南料理の酔蟹は、腐乳(豆腐の塩から)と一緒に、酒仙の酒の肴に、最も歓迎せられてゐる御馳走である。
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 紅燈街の宴席に見る献立は、粋人や食道楽の手合が多いために、その料理も特異の発達を遂げ、随分變つた上戸向きのものが集つてゐる。
 中には、北支那の酒豪連の好む豆胡瓜の油漬といつた珍奇のものまで出て来る。この漬物は、元錦州の附近で産する一寸大の胡瓜であつて、これを油と塩で漬物にしたものである。形は小さいが、結構な風味も高くて、その色、そのぶつぶつの皮を有する点は、全く完全な姿をなしてゐる。元来このものは、蜿豆の茎に、胡瓜の茎をつぎ木すると、自ら一寸
                                                                                                                                
大の胡瓜が成るといはれてゐる。その技術の巧妙なことは、一つの誇りとなつてゐる。
天津北平地方では、さまで珍らしくも云はれてゐないが、これが鎮江、蘇州、上梅と南下するに従つて、ひどく酒席の珍話題となつてゐる。
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 紅燈街に踏込んで、戸別的に覗き込み、その紅緑の金文字にひきつけられて、その門に入り、佳人の部屋に納まつて、卓上の熱茶を啜つたり、西瓜子をつまんだり、多少相手を囃がせて、ものの一時間も談笑し、愈々勘定をして出て来るといふ位な遊びなら、それが北支那であると北平であらうが、太原であらうが、大抵銀の二弗くらゐ、田舎ならば一弗も置いて帰ればよいのである。それ以上置く必要はないときめられてゐる。
 尤も北平では、南班<ナンバン>北班<ペイバン>に、各様の階級格式があり、青楼次第ではもつと奮発をしなければならぬ所もある。又二流、三流から、更にその下の下もある。しかし立入つた話であるが、三流以下は、門を這入り奥の部屋を覗いて見るだけでも、一種異様な、三流獨特の臭気が漂ふてゐる。ごの邊はその道の専門家の研究解剖を必要とする所である。

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 又江南地方では、何れの城内にも、紅燈街ばかりは特殊の発達をなし、上海方面で、鎮江と鎮江以北の佳人、例へば揚州美人あたりは,これを蘇州以南の美人と区別して取扱ひ、自らそこに宴席の相場も違ひがある。
 その方面では、特にその出身地のことを立入つて尋ねる習慣があり、又客に對して
も、どういふ譯か、地の人と江北人<コンポレン>とを区別して取扱ふといふ習慣がある。
 紅燈街の楼上で、江北人と呼ぶのは、普通にいふ商賣人といふ以外に、何んらか或る田舎の人、旅の人といつた気持が加つてゐるかのやうに思はれる。遊郭方面の佳人に封する見別け方、又酔客遊士に対する一種濃やかな嗅ぎ別け方が微妙なうちに行はれてゐるやうに思はれる。
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紅燈街に出入すること教回にも達すると、そろそろそのうちには、旅立ちの前に答禮の宴の一回も開くやうなことになる。互ひに顔馴染の人同志を集めて、なるべく八人の顔振れに達するやうに、人選に心を配る。しかしその呼ぶ客が、何れも自分の方は皆親しくしてゐる客であつても、客と客との間に、顔馴染のないものが、どうしても二三加はるやうな場合も起って来る。これは止むを得ないこととしてその席で主人自ら紹介をするのが禮である。
 又急な催しの場合などには、豫定の数に顔ぶれが揃はず、その日になつて、席を埋めるだけの人を要することがある。その時は相手の方から失禮だと思はれないだけの、平素懇意な友達を誘ひ出し、否でも應でも之をひつぱつてくる。どうかすると、既に家で食事をすましてゐる者迄をも、兎も角出席を願つてつれ出すやうな場合もおこる。殊にそれが一方の方の通人であり、佳人の名をよくよく誦んじて、場面を取り繕ふことのうまい第一人者であるといつたやうな時には、萬障繰合せて出て貰ふ。
それは又他の客に対しての禮でもある。その人が支那歌の一つも、調子面白く朗々と歌ひ出ることが出釆れば、尚一層妙である。
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 送別の宴が終ると、これが最後であるといふ名残り惜しさも加つて、大抵二次会となるのがおきまりである。この二次会の場所は、これは又とてつもない奥まつた路次を這入り、その突當りを又左に廻るといつた、結局或るグロ味たつぷりな酒楼の二階である。そこには麻雀の部屋があり、鏡の部屋があり、廊下を隔てて向ふの後房には阿片臺の豊かな設備までされてゐる。待つてゐましたとばかり、こゝには又面白いハイカラな服装をした若いのが、夫々熱茶を運んで来る。麻雀の支度をする。
後房では阿片臺の用意をして、低い机の側に、耳に飾る翡翠を揺がせつつ嫖客を差し招いてゐるものがある。阿片をくゆらせる豆洋燈に、小火が点ぜられる。といつた奥床しいが、何んとなく無限の深かみに引入れられるやうな場面が、夜半月三更の頃、ここに展開せられるのである。かくしてニ次会の夜の名残りは、次第次第と更け行くのである。       
 酒楼に登り酒たけなはになつた頃、若し藝者でも席に呼ぼうと云ふには、佳人を迎へる文章のちやんと印刷されてゐる紅の一枚紙に、その藝者屋の名前と、佳人の名前とを書入れ、黄包車を飛ばせば、平素馴染のものであれぽ、すぐ様やつて来てくれる。それに胡弓をもつた先生がついて来る。するとその席にゐ並ぶ客の方でも、我れ劣らじと又別の紙に、意中の佳人を迎へにやる。早速顔はそろふ。     
 あちらの席でもこちらの席でも、かけ合ひで面白い調子の美声の競争が始まる。胡弓の先生も、亦合ひの手を入れつつ、清き玉音の一曲を挿入する。
曲の名前が判らないと云ふと、すぐ支那客から筆で書いて示してくれる。上海近来の評判の俗曲で百代<パテ>公司の新レコードにも入れられたといふ、取っておきの歌曲であるさうだが、始めての日本客には、それ程名曲とも何んとも判断がつかない。
 しかし愛嬌をたたへ、その甲高い声を十二分に張りあげ、又次の一曲をやつてくれる。
 かくて数曲を歌ひ囃やげば、それが済むなり、誠にあつさりとした態度で、瓢然と酒の座から姿を消して行く。
 他の宴席に先約があるからであらう。それにしても日本の紅裾連が、お座敷をはづす時の愛嫡振りとか、その挨拶の言葉つきを見せるやうなことは、一向にない。
     
 支那の藝者は、どちらかと云ふと、何んだか水臭いやうな感じがする。しかしこれは、上海のものに特に多いようである。殊に四馬路界隈は、いづこの青楼酒席にしても、先ず同じようなものである。
                                        

 寧ろ何んなら、その夜借り切りにして、そのまま例の二次会の阿片室の方へつれ込むプログラムで進んだ方が、心一杯客に満足が與へられ、自らもその心持を擅にすることが出来るわけである。
 支那の紅燈街は、上海に限つたことはない。しかし御馳走なり、佳人なり、凡て實質本位に出来てゐるのであつて、その場面の飾りだとか、部屋の體裁だとかいふものは、割合に考へられてゐない。
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 或る夏のタ、三馬路のとある春の字のついた青楼に、御馳走に呼ばれたことがある。すると、その支那客の中にその翌朝漢口へ旅立ちすることになつてゐる陸大人と云ふがゐて、同君の送別の宴も兼ねられてゐるのであつた。陸大人は首許の大きい筋骨たくましい好紳士で、数日前に花嫁を迎へたばかりの先生であつた。そのために、酒席は満堂春色を生じ、春風駘蕩の気が漲つたのである。
 所が宴酣なとき、気がついて見ると、いつの頃から降り始めたか、篠つく雨が窓外に聞えてゐて、扉をしめてすら、尚且つ中へしぶいてくるといふ烈しさであつた。盆をくつがへす程度以上の狂ひ雨で、屋根裏の一部分からは雨が洩れ壁に傳はつて落つる。食卓には何んのこともなかつたけれども、兎に角戸外は非常な大嵐となつた。
 やがて歌ひ囃げる佳人の後ろの壁面を見ると、ここには茶色の濁つた雨水が、幅ひろく幾條にも分れて傳はり落ち、物恐しい光景を呈してゐるのである。白髪三千丈式の形容語を用ひるとすれば、全く高壁にかゝる長川から、瀑布の落ちるとでも評してよい位であつた。雨は降る降る。土壁は流れる今も正に粗笨な青楼建築は、雨のために屋根が落ち崩れるのでないかと気づかはれた位であつた。
 ところがわが支那客一同には雨は雨たり、我れは我れたりと云つた風で、底抜け騒ぎに拳が始まる。
詩吟が始まる。幾ら土壁が流れくづれやうとも、何等見向きもしない。若しもこれが日本人の酒客であつたとしたならば、酒の酔ひはさめてしまふ。そして、先づ番頭を呼びつけ、『君、土壁は大丈夫かね、見給へあの有様を』などと、勘定そこそこに総立ちとなつて立つて行くにきまつてゐる。所がここだ、流石に大陸人は驚かない。ビクともしない。眼中大雨の大の字もなく、完全に送別の宴の第一次を進行させ、やがて十二時近くまでも乾杯又乾杯と、本當の歓を盡す。やがて誰れいふともなく、
『妻若きもの、先づ一杯』
と陸大人に酒がつがれる。すると他の悪友が、そばから口を出し、
『明天旅立ちするもの、又一杯』
と来る。立続けに一座の年長者から陸大人に向かひ、又
『年若きもの、いま三杯』
とくる。陸大人嬉しいやら得意やら、大いに勇を鼓して、乾杯、乾杯、又乾杯。全く
 君に勤めて更に盡す、一杯の酒
 西陽関を出づれば故人なからん
  (勧君更盡一杯酒 西出陽関無故人)
といひ終つて、又乾杯。全く「渭城の朝雨輕塵を浥す」の唐詩をそのままの送別振りであつた。
 爾来漢口から帰滬した陸大人には、上海でいつも面唔してゐるが、肩をぽんと一つ敲くだけで、その晩の乾杯の席を思ひ出し、限りなき好印象を今だに繰返してゐる次第である。その邊の情緒には、勿論何んら日支間に見る差別観などは全くない。
 所で、十二時を過ぐる事かれこれ三四十分、狂ひ雨もいくらか脚勢を減じて来た。やがて八台の黄包車に一同は乗つかつて、酔眼朦朧、紅燈の光りも夢心地に見え、左に行つたか、右へ進んだか、覚えはないが、兎も角落着く先きは例によつて例のところ。それから先きには、到着した家の楼上の後房に、八尺大の姿見が重々しく掛かり、それに我が姿のチラと映つたことだけを記憶してゐる。陸大人の思ひ出や、さぞさぞ情緒濃やかなるものがあつたであらうと、今もつて人ごと乍ら語り合つてゐるのである。
              
                  ○

 紅燈街の方面に就ては、これ程迄の打込んだ相棒を、支那人間、又は在留日本人間に得ることが出来るならば、ここにそれこそ人を魅するだけの話も出来ようけれども、不幸にしてまだその機会を得ない。しかし、幾度か紅燈覗きをした程度をひつかけに、具體的の見聞談から、その人情美のあらはれた處について、簡単に述べてみる。
 支那の佳人は、人もいふ如く単に酒席に侍り、御用を仰せつかるべく呼ばれた時は、その時間だけのことは努める。これは大抵以前に多少の係り合ひがあり、又その抱へ主との関係から、意外に便利を得ることもあらう。けれ共普通は、その座席に對する職業的意識の他に、大した情緒連綿の事實はあまりない。甚しきに至つては、酒席に臨むに當つて、歌の曲目を書きつらねた横帳を懐にして、この曲ならば幾ら幾ら、この方ならば價が倍だ、といつた、まるで翡翠賣りが、鞄の中から品々を取出して商ひをするといつた式の行き方で、つまりその場限りをすませば、後は野となれ山となれといつたのが多い。又それについてくる胡弓、その他の伶人も、唯楽手として一緒に酒席に連りはするものの、さうその客の顔色や、話の調子に景気づいて、面白う可笑しう場面を取りなすやうな気配りもしない。
 唯佳人が歌ふから、自分はかなでるのだといつた位の気持でゐるらしく、足を重ね、胡弓の竿に手をかけて、壁の一方を打眺め、弾くことは弾いてゐるが、さうそのお正月らしい笑顔も見せてゐない。
 大抵は、眞面目くさつた顔をしてゐて、酒の席を何んと心得てゐるか、といつてやりたい位な面構へをしてゐる。たまには客と客の間に割込んで、一曲弾じた後、西瓜の種の皮を、卓を隔てた向ふの粋人に投げつけたりなど、佳人と共に愛矯たつぷりと囃いで行くものもゐる。がしかし、一般にはそこまでなるものは少い。
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 しかしこれも度重なるに従ひ、又年を経るに従ひ、矢張り馴染みの度が濃厚になると、嘉客の方でも、他の者は呼ぶ気がせず、例のいつものを呼ぶことに豫定がきまり、つきそひの番頭も、主人の鶴の一声で、すぐその迎ひにやる紅紙に、その名前を墨書するといふ譯になる。その間の顔馴染みと、日常の心持とが、次第に濃厚に度を加へ来れば、季々々の身の廻り、晴れ衣装、装飾品に至る一切を、特別につくつてやつたり、祝つてやつたりなどすることが常例となり、佳人の方でも、他にたよる人もなければ、これを當てにしてねだるといふことにもなる。
 ところがここ迄来れば、その間の関係は、日本に於けるそれと同じやうに、費用の点や、種々な面倒を超越して、大抵の願ひはいふがまま聞いてやることになり、場合によると、家庭の第一夫人にさへお眼鏡に適へば、これを家に迎へ、側室の一つをあてがふといつたことにもなる。しかしこの場合には、媒介者の手数は要しないで、凡てが直接に、内間だけの話ですむのである。しかしこは必ずしも家に入れるの必要はなく、外の従来通りの紅燈街に居らせ、満天下にそれと歌はるる評判の名妓として、天晴れの栄誉をになはせて置くのも香しい話である。

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これを要するに、支那の旅として歓楽の天地を味ひ、視察するには、先づもつて支那の社会そのものが、紅燈の世界であり、色の天地であり、理屈のない柔かみに充ちた實生活を反映してゐるといふことを前提に考へるべきである。仮令白昼は殺風景な場末であつても、黄昏の時刻からは、四方八方から蟻の甘きにつくが如く、自然と遊冶郎達が出浮いて来て、いひ知れぬ人間生活の本當の場面を演じてゐる。所によつては、夜になつても餘り街燈が点ぜられす、唯あちこちに、死んだやうにぽんやしてゐる点燈の薄暗い下を、魔物のやうにうごめいてゐる人々を見る。覗きに行った馴れない日本人などは、身が紅燈裡にあることも忘れ、却つて肌に粟を生ずる位である。
        ○
 しかし何處の里も、人情に變りはない。紅燈緑酒のもとに集る呉客越客は、何れも皆同じ幽情を暢舒せんがために、総一念に思ひこがれて足を向けて釆たもののみである。その中に日本人が一人や二人居らうとも、何んの関することがあらう。目的は他にある。日本人だからといつて、特に殺伐な気分などを起すことは、無論あらう筈がない。互ひに粋をきかせ、譲り合ひつつ楼上楼下に出入してさへゐれば、目出度い気分が通ひ合ひ、すぐさま解け合ふ譯でもある。
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 歓楽の支那は、城内に、水郷に、到る所御馳走と、酒と、今一つのものとで、大抵一日の疲れをなほし、仕事を計画するにも、人に相談を持ちかけるにも、又客を送り迎へるにも、労を謝するにも、凡て皆この三者を用ひることはお定りである。いはゞ支那人の人生観とは、日毎日毎のこの三者の連鎖劇に過ぎないのである。されば紅燈街の観察は、最も根の深い、又最も意味深長な、支那生活の真面目をここに表現してゐるのであると見られる。
 支那南北各地に、常に見る動乱や、世界到る所に移住してゐる僑民が、堅忍不抜の努力を惜しまず、営々孜々と努めてゐるなど、これらはつまり煎じ詰めて見ると、如何にして自己が年中歓楽の生活に到達し得んかにあることは明かである。
 されば紅燈街は、世相の一場面でこそあれ、ここにその楽しき理想境が展開せられ、その目出度い吉祥里がそのまま見出さるる譯であるから、支那旅行中これを突きとめ研究して来ることは、真面目な意味に於て、支那研究の重要項目といつても差支へない。この点にカ点を置いて憚る所なく、下腹に力を入れ、しまる所はよくしまり、遊ぶ所はよく遊び、                                                                                        
心の裏と表の扱ひ別けをなすことは、蓋し支那の旅に、最も忠實な旅行振りであるといふことが出来るのである。

(後藤朝太郎著「支那及満州旅行案内」<春陽堂・昭和七年発行>所載)

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