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2013年4月27日 (土)

支那の体臭

 数千年を経てなお変わることのない中国社会の基底を流れる通奏低音、その圧倒的な活力と匂い。

 中国学の泰斗が大らかな筆致で活写した、一九二〇~三〇年代の中国の風俗探訪ルポルタージュ。 中国の本質を理解するための一助となる好著再刊。

 「支那の体臭」後藤朝太郎著・四六判ハードカバー二八八頁 定価二一〇〇円(税込)

 バジリコ

 〒130-0022 東京都墨田区江東橋3-1-3

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(H25・4・27 朝日新聞<朝刊>所載)

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中国台頭の終焉

 

「世界一」になる日は来ない?

リーマン・ショック以後、巨額の財政出動で危機をしのぎ世界経済の主要プレーヤーに躍り出た中国。 国内総生産で日本を抜き去ったが、10年以内に米国も逆転する。 というのが国際的な大方の見方だ。

 経済産業省出身の中国ウオッチャーの手による本書は、おそらく初めてその「常識」を覆す本となる。 中国が経済規模で米国を抜く日はやって来ない、というのだ。

 根拠として、国有企業の非効率、地方財政の闇、迫り来る超高齢化などの悲観的データが詳しく説明される。

 ただ著者はそこに希望も見いだす。 現在の日中対立の背景には「世界一の経済大国」を見据えて傲慢になった中国と、その中国巨大化に底知れぬ恐怖を抱く日本という構図がある。 だから双方が中国経済の真実を知れば、互いの経済を傷つけあっている余裕はないと知るはずだ、と。

 中国という巨大な国家・市場に関心をもつすべての人、とくに日中両政府の関係者にぜひ読んでほしい本だ。

                                原真人(本社編集委員)

*「中国台頭の終焉」(津上 俊哉著・日経プレミアシリーズ<935円>)

(H25・3・3 朝日新聞<朝刊>「読書」所載)

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2013年4月21日 (日)

同級生が機銃掃射の犠牲に

 千葉県五井町(現市原市)の国民学校4年生だった45年3月初め、授業中に警戒警報のサイレンが鳴った。 授業は中止され、児童はおのおの自宅に向かった。 数分後、突然空襲警報に変わったと思うと、千葉市方面から米軍のP51戦闘機が高度30メートルくらいでの超低空で機銃を連射しながら飛んで来た。

 パイロットの顔がよく見えた。 鬼のような形相だった。 私はとっさに民家の軒下に避難したが、機銃掃射は容赦なく、私の目の前30センチほどを走っていった。

 やがて静寂が訪れた。 しばらくしてから大人たちが何かわめきながら担架を持って走っていった。 好奇心から私も後を追った。 行き着いたところを見て驚いた。 路面は血の海で、子どもが1人倒れていた。 それはなんと、数分前まで一緒に授業を受けていて別れたばかりの親友、佐藤昌夫君ではないか。

 同じクラスで席が近く、よく一緒に遊んだ。 おっとりした動作の子どもだったのがいけなかったのか。 腹部を20センチくらいえぐり取られて出血していた。 私はぼうぜんとした。 それから1週間ぐらい食事がのどを通らなかった。

 翌日登校すると、教壇に立った担任の女性教師が「佐藤昌夫君が・・・・・]と言うなり号泣した。 児童は先生の顔を正視できなかった。

                          会社社長 清水 徳久(千葉県市原市 77)

(H25・4・16 朝日新聞<朝刊>「声」所載)

 

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2013年4月19日 (金)

忘れられぬ 空襲で母を失った少女

 終戦直前、西宮を地獄にした無差別空襲。 降り注ぐ焼夷弾のなか、避難の母子3人が巻き込まれ、血まみれで私の家に運び込まれてきました。

 母親と背負った乳飲み子ともに、焼夷弾の部品が突き刺さり、すでに瀕死の状態。 国民学校3,4年生くらいの女の子は無事のようでした。 意識のない母親にすがりつき、離れようとしません。 

 けが人が詰めかけ、母親の遺体を部屋から出そうと周りの人が手を掛けたときでした。 「お母ちゃんの体、まだ温かいよう。 死んでへんよー、まだ生きてるよー」。 絞るばかりの叫び声に、居合わせただれもがもらい泣きしました。

 骨箱二つを小さな胸に抱きかかえ、少女は親戚の人に引き取られたと聞きました。 彼女の父親は招集中で、母子3人だけの留守家族でした。 折にふれ、少女の痛ましい姿を思い出してなりません。

 

                              無職 渡辺 芳一(兵庫県西宮市 86)

(H25・4・16 朝日新聞<朝刊>「声」所載)  

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2013年4月18日 (木)

硫黄島に赴く父と最後の時

 出征した父との面会を許され、44年2月、私は母、祖父、乳飲み子の弟と叔父の5人で長崎から灯火管制の夜行列車に乗り込み、父のいる福岡市の陸軍第12師団歩兵第24連隊の駐屯地をめざした。 

 連隊に着くと、面会はよいが会食は禁止で、時間制限もあった。 寸時の面会に、祖父は和服の袖に潜ませていた自家製のどぶろくを出して父に勧めた。 そこを週番士官に見つかり、はっとしたが、週番士官は見て見ぬふりをして立ち去った。 最後の面会と知っていたのか。

 帰りかけて一転、会食が許可されたので営門前にあった軍馬の小屋に行った。 敷きワラに腰を下ろし馬ふんが臭う中、白米のおにぎりとカンピョウの巻きずしをほおばった。 

 母や祖父らは父との最後の食事に胸つぶれる思いだったろうが、11歳の私は父が遠方に派遣されることは察していても、これが父との永遠の別れになるとはわからなかった。 父はその後硫黄島に送られ、45年3月、戦死した。

                             無職 中尾 保彦 (愛知県知多市 80)

(H25・4・16 朝日新聞<朝刊>「声」所載) 

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2013年4月 9日 (火)

企業の中国進出のあり方について<中国を愛す>

 企業の中国進出のあり方について、どうであろうと自分は一度ならず有力な会社側から質問を受けたことがあるが、其の時の自分の答はこれである。

 日本の紡績などもその幹部のうちに大分中国人を入れてやらなくては納まるまい。 又利益の方も工人従業者に山分けとまではいくまいが心してよほど分配してやらなくては納まるまい。 行く処まで行かなくては到底悶着のなくなる時はあるまい。

 他人の土地に来て仕事をしている以上そこに障りの生ずるは当然である。 況んや利益を挙ぐることを目的として働く以上利害の衝突のあることは明白なことである。 唯そこに中国側の心理を視、人情を加味して所謂人間味のあるやりかたをなすことが必要である。

 ここに述べた自分の卑見は第三者としての考である。 若しも当事者として立つ時には容易にやさしい顔も見せられぬとはよく人の云う所である。 恩威並に行われるようにやることは容易でないが、要するに問題は人にあることである。

 中国のヤングチャイニーズが自覚した活動を始めたとか日本の投資家をいじめたと云って日本人は悲観するようなことはいらぬ。 経済的の利益を独占せぬように地方地方の人民と懇親を深めつつ事業を興して行くならば折り合いの悪るかるべき筈はない。

 或は又中国人が簡易工業を起こして日本の雑貨を排斥し、駆逐するようになったからとて之も悲観するには及ばぬ。 中国に対してすべて悲観は禁物である。 どこまでも中国は通ずる国である。

 中国工業が我に追い付いて来たなら先きへ先きへと日本人の方は一歩精選されたものを造りだすことを研究していることが大事である。 又中国民衆の嗜好に合うもの又購買力に合うもの又中国買弁に利益を与え得るものを次から次へといつも考えて行くことが大切である。 さもなければ行詰まるのである。 

 それ故に中国に対することはつまりいつも絶えずその研究を進め悲観せず楽観的態度で積極的に向かう可きである。 中国ぐらい前途の有望で未知数のところはない。 又中国の国土ぐらい奥深いところはない。 又中国人ぐらい甘味のありゆとりのある国民はない。 

 同時に又中国人ぐらい矛盾の多い国民はないのであるから、一方にいくら外人を拒むような態度が見えていても他方には温容で暖かい態度を持し個人的にも誠によい。 人をそらさないし又よく努めもする。 

 日本人のように一本調子でなくそこにゆとりがあってあとに楽しみを残させる気持がある。 中国人に愛想を尽かしたり、中国に悲観的の考を挿んだりすることは日本人としてあり得べからざることである。

 吾人は中国人の一部のものが自覚した顔で騒ぎをして見たところで之によって真に外人を憎んでいるとは思わない。 外人を拒んでいるのでもない。 利害の衝突したり中国人を無視したことをやるものがあれば之を苦しめようとするに過ぎぬのである。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

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2013年4月 7日 (日)

雪中月牙池雅宴の好印象<中国を愛す>

 紹興旅館は『仕官行䑓』と自ら大官御用宿を以って任じ、気位高くきめ込んでいる位だから、体裁、設備、部屋、客庁、番頭、夥計(ボーイ)すべて気がきいていることは無論だし、そのシステムも悪くない。

 田舎城内の宿としては指折りに数えても少しも恥ずかしくない。 部屋は広い二人部屋であって、寝台、卓、椅子も結構であり、電燈も明るいのが點いている、客庁には大きい置時計、壁に對聯、鐡畫の四君子、蘭、菊、梅、竹。 左右に十景椅子、中央には仙菓と到れり盡せりである。 

 而かも房金、小賑、被褥、電燈、茶房すっかりで『貴衆同伴貮位住貮天』と、つまり張君の分をこめふたり二日で、たった洋貮元捌角四分、これは銀のターヤン大洋二元四角だから日本金の三円そこそこにしかあたらぬ。 もとより料理は別であるが、兎も角中国の田舎宿ではこの辺が上乗の部である。

 しかし中国宿につきものの羈旅の感とか商女は不知、亡国の恨といった様な哀れっぽい情緒のここに見出だされないせいでもあるが、どういう訳か余りきちんとした仕官行䑓は田舎らしき風情を味わう上から少々物足りなく思われたのであった。

 けれども蘭亭帰りのその日は幸いに張君の友人の既に留守中から来て待っているのがあり、その君が即吟七絶の詩を草して見せるとか城内の有志がたずねて見えるとかで親しみの気分は旅社にみなぎり相当面白くまた忙しくもあった。 

 そこへ以前船中で懇意になっていた青年平徳福というが先約によって車で迎えに見えた。

 平先生

 「小盧は紹興城内は月牙池であるが今宵うちの老父が心ばかりの小宴を開き御一緒に趣味文字談を語りたいといっているから是非今からどうぞ」

 「実は正式に紅紙の招待状を何する筈でしたけれども何分急な思い立ちのことで・・・・・」

 と心持ちのよく読めた好意に張君同伴、からだを任せて月牙池へと案内される。

 ところが城内運河、大小水路の縦横無尽、それに架せられた旗橋のおおいこと、おおいこと。 ものの一二町も舗石の狭い路を曳かれていったかと思うと降ろされる、降ろされたかと思うとまた乗せられる。 石の段々を高く上がって行くのでとても車が曳けないのである。 

 運河からいえば舟行に便ずるためアーチの旗橋にしなくてはならず、路行く人からいえば不便厄介はこの上もない。 南方中国はそれだから小舟で動くに限ると胸のうちでは切にそう思っていた。 或いはまた轎子かなどとも考えていたが、平君の手前理窟を今列べる時でもない。

 壁高く聳えたる門扉を入り部屋にいきなり通される。 家廟に祀る祖先ふたりの紅衣と黒衣の肖像が大幅にして正面に高く掲げられている。 色々の供え物に貢燭花屏などいうも更なり、づつと上には墓表の拓本まで神々しく寶蔵されている。

 やがて厳父、母堂お揃いで席に見えられ、徳福君を間に入れてねんごろなる挨拶のあった後、紹興の古老として追旧談やら古書畫に関する趣味談があり、近代人の畫幅三四十點の展覧さえ催され、水墨を特に愛賞せらるる風流韻事の閑話など殆ど尽くる所なく、そのうちに湖筆徽墨臨池の餘技も始まった。

 興に乗じ翁の趣味に感じ今では何をものしたか覚えてもいないが、兎も角その日ひるは蘭亭曲水の清游に浸り、宵はこの清宴を名前も懐かしい月牙池の鶴荘に催されたこととて『奈斯良夜何』と計り古篆か何かでその快感印象の或部分をせめてもの記念にとて蘭亭のほとりに紹興月牙池にわが恥を残しておいた次第である。

 田舎の昔ながらの中国住宅のこととて、部屋には別に暖房の設備などはない。 家人何づれもただその羊毛の筒袖の長きを拱手しているだけで、それで何等冷を覚えることもないらしい。 これは北京、北中国方面も江南のこのほとりも変りはないのであるが、自分はどこにいってもいつも脚爐をもとめて僅かにこれで凌ぐ習いである。 この日の寒さにも之を求めていたのであるが、老爺の君のその脚爐一つだに必要としていないらしかったのは啻に油っこい料理からくる勢力ばかりでもあるまいと思われたのであった。

 異境に翰墨の清談に耽っているといつ尽きるとも、時を知らない。 そのうちに夜もふけ、月牙池の戸外墻界、雪は紛々紹興城内橋上白皚々裡に埋められた景趣の中をおくられて宿に帰って来た時は、さすが仕官行䑓の門前街頭家もすべてこれ銀號をつらねたるかの如く電燈に照らされて誠に美観を呈していたのであった。

 かくて紹興の情緒はその蘭亭行といい、また月牙池の雪中脚爐の印象といい、過ぎにし春の清游の思い出はなつかしさにたえられないところがある。 今も尚平先生との消息は絶えないのである。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

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2013年4月 2日 (火)

蘭亭に游びて曲水の今昔を比較す<中国を愛す>

 蘭亭の位置は、王羲之の風格を追懐せしむるに最もふさわしい浙江の田舎、閑雅幽邃の山峡にある。 

 之れをかの柳先生陶淵明の廬山柴桑里、酔石の 閑雅幽邃なるに比べると其趣がやや異なっている。 柴桑里には陶氏の子孫と称する小盧が二軒ありて互に総本家を争っているらしい。 が兎も角も子孫はいる。 その酔石の景趣、刻文、また渓谷より仰ぎ見らるる小瀑布の小音、すべてこれ隠者的で山月の風格をば十分に偲ばせている。 

 之に反して蘭亭の方は此に王氏の子孫こそ居ないが、山陰の峰は廬山ほど高くもなく山峡も相当に濶く、其の地勢と云い規模と云い王右軍の清遊の境地としては恰好の所といい得る。 

 蘭亭の境内は例の渓流を渉り緑陰を右に見て、正面に進めば『蘭亭』と正楷の大筆金文字の扁額を掲げられたる楼門がある。 見るからに雅趣に富みたる古代建築のスタイルに出来ている。 門を入り左に折れて梅林の間を行くこと数町『鵞池』の草書の刻碑がある。 碑亭のうちに納められてあるのであるが、手拓の跡甚だしく殆ど漆黒剥落せる所も見えていた。

 碑亭の奥梅林庭園の正面には寶亭がある。 乾隆帝勅額の御書『流觴亭』と云うが鮮やかに仰ぎ誦せられ又亭内高く『曲水趣歓處』と五大文字の扁額が光って見えている。 左右の柱楹は気高く之に長聯の懸かりて奥ゆかしく、その光彩を添えているものがある。 聯に曰く

 寄倣林邸三春陶和気。     散懐山水千歳挹遺芳。

とその右軍の遺芳を偲ばせている所に盡きぬ千古の余韻が認められていた。 寶亭の飛檐は甚だしき反を空に示して静寂の悲境に一段の清香気分を漲らせているが、更にその向って右方曲水の流れに接して楼閣の飛亭が聳えている。 境内建築美の呼物となっているものである。 先に渓流を隔てて緑陰の影からその飛亭の屋根の先端が認められたのはこの楼閣であったのである。 

 曲水の水はこの飛亭の後方山陰の北麓より匯流し来たり、劃然直截極めて深く作り成せる溝渠を縁一パイに流れ今もその溢れん計りに勢いよく湛走って更に又右へ折れている。 その色紺碧。 洵に豊富、潤沢、清洌の情緒を起こさせている。

 石橋を隔てて右方は更に二梁の堂宇破風を接して曲水のヘリを劃し並んで居るものもあった。 かくして境内竹林、梅林の陰には六、七宇の楼閣樹亭を数えることが出来た。 固よりこれとても晋代千有餘年前の当時の俤をどの程度迄伝えているかはよく判らぬが、何れにしても其の曲水の路は山陰渓流のS字形に匯流せる自然の水勢を利用していたらしいこと丈は今も明らかに推測せられるのである。 朝鮮の慶州の鮑石亭の遺跡の如き、もと山陰蘭亭の故智に倣ったものであることは人のよく知れる所であるが、斯くの如きものを以ってしては殆ど此の曲水の片影にだも似かよった所を見出すことの出来ないことを知ったのである。

 次にその流觴賦詩の清遊の場面に就て考えて見るに、自分の実地に親しく見た曲水の流勢からすると、羲之の催しをやった時代は水勢が今少しく徐々に緩やかであったものではあるまいか。 と云うのは、当時境内の水面を流れ来たれる幾多の酒盃がそれぞれ群賢の席の前に餘りにあわただしく速く到着し来たっては吟詠の暇も何もあったものでない。 罰盃又罰盃と続けさまにやられたにちがいない。 

 今日の曲水の流れは誇張して云うと四川三峡の水勢のそれの如く快速力になっている。 これでは電光石火の如く詩が口を衝いて出たとしても詩箋に認める暇もどうする間もないだろう。 殊に文人のあの執筆、運筆の構えから想像して見ても、こは日本の芝居で三くだり半など立って居てスラスラ一気呵成にやってのけるあの式には参らなかったであろうと考えられるからである。

 曲水のスピードの研究理窟を足るほど列べて、それが済むと後庭林間の緑陰を探り山陰の麓、山畝の間にささやかな小隠を訪ねて見た。 百姓のかみさんが針仕事をしている所であった。 張君先ず口を切り暖が取りたいの茶を請いたいのと思う心のままを云う。 そばにはふたりの女の児のいるのも見えていた。

 が、優しいかみさんと見えて「さあどうぞ」と却々愛想もよろしい。 話のうちに「子供さんの名前は」と軽くやって見ると、上のが沈秀英(十一歳)小さいのが沈桂英(七歳)と云う、かみさん流石に字もよく知っていて文字の即答も出来た。 いかにも蘭亭山陰の農家だけあるわいと珍しく思った。

 上のが十一歳ならうちの文子と同じだなど、たわいもない話を続ける。 小さいのに向かって持ち合わせた甘い物、紙包のまま張君から与えようとするに、桂英はにかんで母の膝もとに行って了う。 可愛い唐子のようである。 姉の秀英は一パシ早や豆がらで炉に湯でも沸かしてくれたらしい。 ゾオ、ゾオと茶の方言訛りを発音していたのであるが熱いところを出してくれる。 煙い薄暗い蘭亭の農家でこうして自分共は心あたたかいお茶を頂いたのである。 

 小さいのもそのうち狎れて来て一緒に甘味の一つも摘むようになり母子諸共五人、気のおけない間柄の団欒で炉を囲み、蘭亭年中行事の事から遊歴家のことや正面は石橋の流れであるのでどうも危ない芸当で、又渉らなくちゃ帰れないなど色々の物語りに暫し耽っているうち、こちらの体も大分暖まって来た。 

 張君は「行こうか」と云い出す。 子供の狎れて来る時分には行かなくてはならず名残惜しくも思われたのであった。 かくて挨拶をすませ梅林の間まで見送られて別れた。 飛亭をあとに再び驢夫の背にすがり水を渉りて馬上帰路に就いた。

 楼公の田舎飯屋で年糕油菜湯と老酒に再び暖を取り、船頭の待ちくたびれて寝ている所を可哀想であったが呼び起こし、これも中飯は夙くに済んだと云うので、それでは帰りの舟行は南へ十中里迂回だと例の夏の禹王の臨終地と伝うる禹皇殿(地名)に寄航大禹廟を拝し又穴の穿いた妙に滑べっこい大孔石を撫で謂れを聞きなどした。

 かくて一日の史蹟めぐりに幽情を暢敍し得て紹興東郭門をくぐり、薄暮五點鐘と云うに紹興旅館の仕官行䑓に帰りついたのであった。

(後藤朝太郎著「支那游記]<昭和二年発行>より)

 

 

 

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