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2013年3月 6日 (水)

中国人の街路生活に見る甘辛人情味<中国を愛す>

 中国で往来行人の繁き盛り場を通って見ると、軒並みに吊るされた看板には、五彩の文字も鮮やかにその路傍には、行人を目当ての蘭の花束や仏手柑など売っている男があちこちにいる。 又赤本黄表紙や筆墨の類など、ニコニコ愛嬌を湛えつつ客を呼んでいる者も見当たる。

 又中には賎民らしき男が見も知らぬ往来の紳士淑女に親切を売りあとをつけ、真夏炎暑の厳しい折柄とて頼まれもしないのに、頻りとバタバタ、さも鰻の蒲焼でも作るような要領で煽ぎ立てている。 

 この男始めの程は成るべく感づかれないようにと加減をしていたらしいが、相手の心が読めて来ると云うと次第に力を入れ、然るべく大の団扇を、上下に風を送リ送り涼味を献ずるのである。 

 物の五六町も煽ぎ続けて来ると、雑踏の中を益々露骨に行き、その手を弛めようともしない。 やがてその紳士の辻から曲ろうとか門内にでも這入ろうとかする時が来ると、正面に廻り姿を現わし件の団扇を指しつつ「老爺、御心ざしを頂戴いたしたい」と出るのである。 

 こはその労役に対する当然の要求であると、心得ている為でもあろう。 哀れを求めて恵んでもらうなど云うけなげな態度は少しも見せない。 のみならず、若しその額でも少ないと見た時は倍額の要求をして開き直る。 そこに遠慮も何もあらばこそ、無論十角や二十角喜捨されたにした処で、有りがとうの礼一つ云うでない。  

 こは路上の車夫が車賃を受取った時の気分にも似ている。 その辺の気持は、我々の常識からは、判ぜられぬ処であるが、こうした立ちん坊風情のものでも、中国世相の裏に潜む思想の流れは、おのずから解されている事実がこの一事によって物語られていることと思う。

 又、下層苦力<クーリー>たちの普段の生活を見るに、その路上を行くに、一日の仕事を了えて休むにも、可愛い小鳥を止まり木に止まらせ口笛軽く小鳥の相手になりつつ、目尻も細くさも楽しげに歩いている小景を眺むる。

 又時に大の鳥籠を提げ、往来の群集を避けつつ、公園や城隍廟指して出浮く者なども見る。 蘇州城外で見た小鳥の飼い方に依ると、タンポポの花の心に潜める柔かい白虫を捕え、之を餌となして、専ら美声を出させることに腐心していたのであった。 

 この小鳥愛の風習は中国全土に亘って広く行きわたれる優美な趣味生活の一方面であるが、この風懐がその日稼ぎの連中にまで、かくも深く食い入り、衣食住同様立派に、その生活の中に織込まれ、従ってそのいくら忙しない時でも、小鳥の世話を怠るようなことはないようである。

 又銭荘、銀行その他、商店辺りの窓のところを見ると、外壁の日当たりのよい処を選び、小鳥の声美しき鳥籠の吊るされたのが目を牽く。 働いて居る人たちは店の帳場で算盤を弾き相場の勘定に従事しつつも尚且つあたまは帳尻の一方に囚わるることなく、時折り小鳥の方へも気を配って居る。 中食後その鳥籠をおろし、愛撫して居る様子と云ったら、奥ゆかしく眺められ、客の方でも亦、小鳥に牽かされ、店に立寄るものが多くなる訳である。

 外国人の見方からすると、かかる趣味、風雅の嗜みは、総べて精神の集中、能率の増進に百害があり、だらしなき遊びであるとして喜ばれない傾向がある。 中国街の人たちに云わせると寧ろ小鳥愛そのものこそ人生の本体であって、算盤の方は、ただ生きんが為の一手段に過ぎぬのだと云っている。

 従って人生を美化し、芸術化することは、即ち中国大陸生活の第一義であるとかように見ているのである。 農夫、漁翁、花売り、苦力たちにしても、皆この辺の気持が判っていることと思う。

 又夕暮れ散歩をしていると、辻の一隅に黒山のように人のたかっているのを見ることがある。 何事にやと中国服、中国帽姿で、目立たないよう自分も気軽い気持ちで、その中へ割り込んで見る。 中に這入って見ると、一人の盲者が面白く節をつけて、浪花節式のものを歌っているのに耳傾けているのである。 ほんの立ち見の形であるが、心から皆よく聴いている。 

 寄っている大衆のうちには、一とりふたり立ち去る者もあったようだが、そのときは、必ず銅銭の二三枚は喜捨して行く。 次に立ったものも亦そうして立つ。 帽子を倒様にして、集めに回る者のいる所もあるが、ここには、それは居ない。 それでも環堵の大衆は只で聴きぱなしにするようなことはしない。 きっとこう云った路上の立ち見をする催しものには、心まかせの喜捨をして立ち去る。

 こは,華北華南至る処同じことで、ここに純朴愛すべきものがある。 特に催促するものがある訳ではないが、自発的に投げて行くと云った美風の見らるるのは、思うに中国下層民に対する社会政策が、実現せられている為であると思う。 細民の間の行楽に、この数枚にもせよ、銅貨の投ぜらるるは老いも若きも之を当たり前の事としているので、ここに無限の情味が窺わるる。

 又路傍に可憐の児女が、烤白薯(焼甘藷)を買いに来るのを、そばで見ていてもその時、いもやが手渡しているいもの数、いもの計算を見ているに、その銅銭に相当するまで僅か計りの切りいもでも加えている処など、俗語に「童叟無欺」とある言葉その通りに行われ、見る目も気持がよい。 

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より)

 

 

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