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2013年3月 2日 (土)

日中間のことは理窟を抜きにして<中国を愛す>

 日中間の交誼を厚くすると云う立場からすると個人的の交誼、交際上等に決して日本の国力の強い事を鼻にかける様な態度を見せてはならない。 又之を口にすべきものでもない。 これは金持が巨万の富を鼻にかけるのと同様に相手の気持を悪くさせるものである。 相手を不愉快ならしめる者である。 とかく金持は相手をして泣寝入りの状態に陥れて平気でいる。 かような事は殊によろしくない。 上司のものの前で低頭平身する癖に相手が中国人と見ると随分見縊った事を云ったり馬鹿にした態度をとったりするものがある。 中には又相手を、どうせ叶わぬと諦めさせなくては駄目だぞ等云う者もある。 理窟と実際とは大分違うがこの考を以って臨む者が多い様に思われる。

 又相手はいくらでも付けあがる。 それだからよい時分に鼻ばしらを挫いてしまわねばなるまいと云うような云い方をする者もある。 机上の論とちがって実際にあたっているものは双方感情の激することもあり、遥か遠くからのどかな事ばかり云っていられぬことも慥かにある。 そこは自分共も十分認めている。 が頭ごなしに国力を笠に着て重圧を加えんとする如き態度をとるは甚だ面白くない。 それを痛快がってやっている者もあることはあるがむしろ、そは見ていて自分でも不快の念に打たれる位である。 非常な場合に懲らしめる事は固より悪くない。 けれどもそは最後の場合である。 それをいつでも同じ調子に高圧的手段を常習の如くやっているのはよろしくない。 こは驢馬に乗ったとしてもそうである。 必要でない時いつでも常習的に鞭打つ癖のある者がある。 之と同じわけになる。 云う事を聞かぬ時鞭でたたくのならよいが之を常習的にいつもやられてはたまらぬ。 むしろその云う事をきかぬ時は薬指で以って尻ッぽのつけねの処を撫でていじくってやる方が宜しい。 そうするといくら荒れ馬でも目を小さくして心持がよいと云わぬばかりの態度をとるに至る。 こは自分どもの実験から来た本当の話なのである。 中国の人を取扱う方法を驢馬に譬えて云うなど中国人には失礼な云い方になるかも知れぬがすべて人情も馬の情もその心持に於いては変りがないとの事を云わん為めこの例を引いたわけである。

 人は云う日本人に中国馬を扱わせると無理にムチを持って打つ。 それだから馬の性質を悪くする。 日本人は家畜に対する馴らせ方が上手でない。 同じ馬を中国人に扱わせるならそれこそ実際に柔らかく手あたりがよろしい。 その為馬は素直に気分が和らぐ。 同じ馬の取扱いがこれほどにも違うと云う。 これは日本人は性が気短かの方であり中国人は気が長い方であるからその性質の然らしむるところ如何とも出来ぬと云う説明もつく。 けれども小鳥にしても虫にしてもその飼い方はたしかによく研究されている。 中国の人は自分で小鳥の気持になり又虫の気分にもなれる。 蘭の花や葉をつむにしても鉄のハサミを用いないで竹製のものを使っている。 この一事を以ってしてもその一端がわかる。 そこには決して無理のあたるような事はせぬと云う心理状態がこまやかにはたらく。 つまり有終の美をなすべく細心の注意を払っているのである。

 理窟の前には仁とか忠恕とか云うものは馬鹿馬鹿しく思われるかも知れぬ。 けれども中国の人は蘭に対しても動物に対してもその気持を失わぬ様に努めている。 そしてそこに一種の趣味を覚えている。 その点に興味を感じているのだからゆったりと打ちかかる。 その興味なり趣味なりを一般日常生活の中にとり入れてなごやかにやっている。 それだから実物に対して手あたりが和らかく相手の気持となってやっている事がよく理解せられるのである。 理窟でなくては納まらぬ等考えるのは甚だ理智に勝ち過ぎた話である。 すべてを忠恕の二字に尽きるような態度で以って接する事これが一般住民なりに向かう心掛けの根本方策としておきたいのである。

 中国を旅して北京あたりの電車の中で誤って他の客の足を踏む事がある。 そこでどうも済みませぬと云うと、あちらからとても思いもよらぬ挨拶をされることがある。

「あなたは私の足を踏むつもりで踏んだのではないでしょう」と来る。

 こう云う気持が日本人の口からその時咄嗟に出るであろうか。 余程修養の積んだ者でなくてはとても出るものではない。 これが自然に出る言葉とすると、その平生にいかにそうしたお世辞なり忠恕の気分なりが練りに練れていたものであるかと云う事を察知し得るのである。

 理窟で争う時は本腰を入れて争うもよろしい。 大いに争うべしであるけれど平素日中人双方が互に接触し共に生活圏内でなごやかに行こうと云う時は出来るだけ突剣どんな態度はやめて、この思いやり忠恕の気分で行く様に心掛くべきである。 ここが本当の日中の国民外交の要点としなくては嘘である。 国力をいつも翳して肩で風を切ると云う様な風にやっていては中国へ出掛けている者自身も骨が折れて仕方がない。 気を遣わずしておのずからなごやかに出られる様修養を積む事、これが何よりも必要である。

(後藤朝太郎著「四億萬の御客様」<昭和十五年発行>より)

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