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2013年3月27日 (水)

浙江省錦江江畔茶亭の情緒<中国を愛す>

 寧波に遊歴を試みんとするものはなるたけ中国式に田舎の情緒を味わいつつ行くに越したことはない。 上海から一夜で三千トン級の汽船でいってしまうのは余りに没趣味である。 特にそれでは文化的研究の目的にも叶わない。 

 その銭塘江を渡り、運河の水路をたよりに蕭山、紹興、曹娥と来たものは必ずや百官の駅にくる。 百官から寧波へは一空、火車で二時間半で行かれるのである。

 さてその曹娥を出て百官に至る間には錦江の義渡がある。 錦江江畔には幾多の中国情緒の漲っている貴い材料がころがっている。 遊歴客はそれを親しく経験することが出来て、それが又中国らしい中国を味わう一助ともなるのである。

 自分は友人の張君を花潭村にたづねるべく曹娥の宿で前晩から轎子を頼んであったので、かれらは朝早くから第一号室の戸のそとに押しかけて待っている。 すっかり支度が出来て愈々轎子に乗ろうとする前、よくあることだから轎班だちに念の為。

「君等は花潭村の路はよく心得ているのか」と駄目をおして見たら一句同音に、

「曉得、曉得、明明白白」と如何にも心得たようにいう。 

 これは百官駅を知っているというだけの心でこちらの壺には少しも嵌っていなかった。 それはあとで判明した。 当てになると思い込んだのが間違いのたねである。

 しかし早朝宿を出て、山下河沿いの平野を行くこと三四里<中国里>、窓外の青々した眺めはよい。 年年歳歳相似たる山水の風光ながらもなつかしい。 

 錦江を義渡の船で渡る。 朝風は寒く身に浸む。 渡船は屋形船である。 七八人の乗合いもある。 船の左右の聯にはうまい佳句をかかげている。

     波平両岸潤。    風順一帆懸。 

 船頭の心にも風流を解している如く読まれたのである。

 それはさておき、轎班をあてにしていて要領を得なかった張君のことは百官の朱象賢という人の話しで最近帰杭して不在であることが明白となった。 自分はそこで正午の火車を待つ為それまで三時間余り錦江江畔の錦江春という茶亭で休むことにした。 錦江春とは名は美しいが竹の柱に茅の屋根式の極めて瀟洒というよりは掘立式のものである。

 気の利いた七八歳の女の児に梅干式の老婆と二人だけで、竈を焚き始めたり湯を沸かしたりして自分に茶を請ずる。 山の中腹だけに見晴らしがきき、錦江の流れに曹娥の野、遠山近峰新緑の装を見せ、義渡の船のあまた碇をおろして帆檣林立しているところなど一幅のよいパノラマである。

 後方の山に桃杏の花の見えたるあたりをあるく。 工程重地。 間人莫入。 とある。 役人でもいるところらしい。 茶亭に帰り娘の入れてくれた茶を喫む。 柱を見ると、

     勤筆免思。 以免争論。

 とある。 茶を喫みに来た客の時々騒ぎでもはじめるために戒めた語か、何だか意味あり気に読めた。 

 やがて卓によりて窓外錦江江畔義渡の去来、船人の往き来、里人の水汲み、紙の荷物の運搬、雑貨の集散、何くれとなく行人の活動するパノラマを見ていた所が江岸の全線に亙りひどく憐れそうな豚の鳴きさけぶ声がしきりと耳を刺すように聞こえる。 老婆にあれはどういうのだろうと大抵わかってはいるが念の為聞きただして見た。 老婆は、

「今、豚船が来ているから豚の積み込みがはじまったのですよ。 行って御覧になられたらどうです」

 と云う。 いって見るといかにも他の地方でやるとおなじくその四肢を十分に硬く縛り合わせてその一匹づつ悲鳴をあげているままを苦力どもが肩にかついで陸から運んでいっては船底へポンと投げるように落として行くのである。 幾十、幾百投げ込むかわからぬ。 

 この豚は縛られる間、かついで運ばれる間、投げ込まれたときは、随分苦しそうに哀を乞うて悲鳴しているが、底に納まると括られたまゝ黙しておとなしくなってしまう。 孟子が牛を見て惻隠の心を起こしたというが度々見ないうちはそうでもあったろう。 しかし自分だちの如くこうたびたび各地でそれを見せつけられていると麻痺したかたちで全く左程には思わなくなる。 ましてこれを運んでいる苦力人足たちには一種の音楽にでも聞こえているであろう。

 物も見よう一つで高い錦江春の茶亭から大観しているときは人足だちのエーホー、エーホーの掛け声とおなじ意味において豚の鳴叫も何だか全体として中国らしい濁った錦江の流水や船着きの景色や村民の物事に少しも頓着しない活きぶりなどによくハーモナイズしているようにも感ずるのである。

 それもその筈、美しく着かざっている姉妹らしい丸顔の女がふたりして、一本の天秤棒をかついで来て、水汀にヨチヨチ降ったと見ると桶に一パイその濁水を汲み込んで陽気そうに二人でまた休み休み坂を上って運んで帰る所が目についた。 これを飲料水にしていることは錦江春の婆々もあの美人だちも皆おなじことであるのである。

(後藤朝太郎著「支那游記]<昭和二年発行>より)

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2013年3月24日 (日)

浙東第一旅館の一夜及び紹興城外和平の景趣<中国を愛す>

 中国の田舎の宿屋ぐらいその地方のローカル・カラーの溢れている所はない。 中国文化の現代的視察にはこの田舎の旅館を重く見る必要がある。 自分はこの田舎の宿屋に深い文化趣味を感じている。

 この地方では宿屋のことをなまってカザンという。 宿屋のことを聞けば土民は客桟有的と答える。 客桟はカザンと発音し土地の通り言葉である。 自分は今その客桟に身をおいている。 ひろい蕭山の田舎の町に日本人は自分ひとりである。 宿の老班(番頭)に向かってこれまで日本人がこの辺に来たという話しでも耳にしたことがあるかと聞いて見たが、聞いたことはないとのことであった。

 道理で大層物めづらしげに、あたりの村民や子供たちが夕ぐれの第一楼の中庭に集まってくる。 セッペンニン(日本人)来了という声はあちこちから聞こえる。 動物園の庭にめずらしいカンガールでも来たという格好である。 珍客扱いは結構だが何分大変である。 

 隣室第二号の客は気のきいた青年で眼鏡越しに上海の新聞申報を手にしながら中庭の籐椅子に寝そべっている。 自分の挨拶に答えては浙江の田舎の話しなど糕柄にする。

 話し半で自分は番頭に晩餐の品目を書いて命じておく。 一、青豆蝦丸、二、糕油菜湯、三、炒鶏絲或鶏蛋、四、老酒(五個銅片)、五、花生。 幾らも時のたたぬうちにボーイは吃飯といってきて中庭の正面、客庁の八仙卓上に支度が出来ている。 青年は食事を済ませたので宿の老班どもを話し相手に晩飯をとる。

 食後散歩して見たいと思って一筋町の賑やかな地域、見晴らしのきく拱橋、寺廟の所在などを聞く。 老酒の燗が甚だよく出来ているので酒のことを老班に聞いて見ると、老班は

「これは老酒の本場紹興酒の陳酒だからものが特別によい。 紹興はこのすぐ先の町だ。」と説明する。 当然としてよい気持になって、一応第一号の自分の室にかえる。

 扉を這入って右の方に清潔な寝台、夏冬通しの白い金巾の蚊帳がかかっている中国更紗の薄い綿布(布団)が細長くたたんである。 やわらかく低い枕もある。 ベットの下には青磁焼きの便壺がおかれ、正面の壁には扁額の山水や佳句がかかげられてある。 窓の下には小卓、椅子、脚、これにランプこれだけで全部である。

 室の広さは四畳半もない位であるがいかにも小じんまりして便利に設備された部屋である。 手さげと例の蝙蝠をこれにおいたきり、別段戸締をする必要もなく、運動かたがた町を見てくると計り中庭にたわいもなく集まれる連中の中からソット抜けて出る。

 中国の新しい文化はこの田舎町にもしみ込んでいる。 左方一二町いったところに照像(写真)屋がある。 上海のバンドの古い引のばしを後生大事とかかげている。 その浦東を取り入れた取り方が気に入ったから暫く見つめていて、そして譲らないかというとジロジロ見ながら不売と答える。 見れば此店は歯医者の店を兼ねている。 金歯を嵌めるとすぐその場で撮影しようといった当世流行の空気がここにも入り込んでいるのである。 

 又相当ハイカラ店も出来かかっている。 唐物店に立寄って見た。 日水壺というものを天井から沢山ぶら下げている。 中国図案の老子の絵など描かれているが紐の具合が日本人らしい。 鄭君の坊ちゃんの土産にと思って求めて見た。 日本で魔法瓶という名が中国ではニスイフといっているのだ。

 町は四五町で尽きる。 折れ曲がって石の拱橋の高い所に上って先に来た運河の水路を見渡して見る。 鰹節型の細長い円い屋根の民船の去来は相変わらず繁々しい。 漕ぐ艪の先の水をかきわけている風情も何となくゆかしい。

 宿に帰り大客庁に茶を請ぜられていると、どこから寄ってくるかまたまた百姓の子供たちが八仙卓のまわりに集まってくる。 申報の絵の話しのたねに種々の地方的の質問を発していると、村の若い衆どもがよろこんでその問に応ずる少しもはにかまない。 四つ手網の名前から今ごろ網にかかる魚の名は何かなど聞く段になると得意げに語る。 落花生でもむきながら、こうした田舎の情緒を異国の旅の空で味わっている時は天下泰平である。 上海に紡績罷工が起ころうが、青島に飛び火しようがこの田舎の団欒的情味というものはまことになつかしい。

 浙江の田舎の中国宿はたびたび経験しているが蕭山の旅館に泊まったのはこの日が初めてであった。 終日出来事が多かったのでつかれも甚だしく、旅枕夢一つ見るひまもなく深く徹底的にねむることが出来た。 人はよく中国宿には南京虫がつき物で閉口だなどと食わずぎらいをするが一向にそのような者にも見舞われず、そのためむしろ少々物足りなく思われた位であった。 今少しくだらしのない客桟にとまったらその情緒が味わわれたかも知れぬ。

 それは兎に角として翌朝は早く十時半ごろ開船するというから朝飯がすむとすぐ船出の前に、近所の髪床にでもいってさっぱりして来たいと思った。 宿で床屋のことを北京語の剃頭的といってもよくわからぬ。 むしろ理髪店といった方が分りが速い位にこの辺は新文化に馴染んでいることを知った。 さてその理髪店にいって見るとただガラッとしていて壁の鏡と相対して椅子が置いてあるだけである。 床屋は皆小鞄を持って通いでくる。 感心に朝の九時ごろであったが既に三四人店に来て客を待っていた。 

 自分は別段に洒落る柄でもないし、さらばといって前方を藪の如くモジャモジャ当世流にやるのも好まず、またヤング・チャイニーズの時代にオール・バックも好まぬ。

  矢張りガリガリがよいからとて寸法をよく説明すると心得たりとばかり小鞄からバリカンを出して早速毛を二三度もんで刈り始めた。 曽て北京で刈られていた間居眠りをしていて中国流に丸く剃り上げられてその晩公の宴会の席で皆から早く写真を取っておけなどとひやかされたこともある。 それ以来中国の髪床では神経をとがらしていたのであるが、こたびは無難にあつらえ向きに出来た。 耳も髪も皆済んだ。

 いくらかといったら実におどろくなかれ郵船賀茂丸船内バーバーの時の十分の一以下で小洋の十四銭だという。 文明の風の吹いている地方ではバリカンさえ使えばすぐ一円五十銭をとるのが普通である事実と対比して実に意外の感が深い。

 宿に帰って見ると船が来ている。 先刻から先生を待っていたという。 見れば民船は殆ど満員の形であった。 切符の票も出来ていたので「これは済まぬ」とそこそこに早く飛び乗った。 客は例によって田舎の百姓どもやこぎれいなかみさんだち、子供を連れた番頭らしいのなどである。

 運河の両岸の眺めは裏壁つづきで先般来見て来たところの延長みたようなものの別段とりたてていう程のこともない。 やがて蕭山城外に出るとそこの転壩というという所で小蒸気輪船に乗換えるのである。 そこの碼頭で皆おろされ二三時間待たされている間に自分は色々面白い城外の情緒を味わうことが出来た。

 その第一は実に美しい五彩の青雀舫と称せらるる美術的の民船である。 盛んな仏事の施餓鬼をやりながら鳴り物入りで波上静かに流して来る景趣が見える。 新緑の楊樹と菜種の花の両岸をバックに、その合唱する題目の悠長さ加減といったらまたとない。 春の日永に土民どもと一緒に橋の縁にもたれ暢気に打ちながめているとその苫のうちから打ち鳴らす鐘の音も清らかにその善男善女の香を焚いている趣きはやさしくて何ともいえず、春の水に調和しているように見られた。 

 そして、その一パイを見送って、かすかにそれが見えなくなるころ、またもや次ぎの江上に清香の趣きをたたえつつおもむろにやってくる。 実に何というめずらしい田舎の詩的な眺めであろう。 南京秦淮の画舫は夜趣においてその名を得ているものであるが、この青雀舫は昼の呼びものとして天下にあまねく知らせたいものである。

 第二には鵜飼いの船の江上橋下を去来する景色である。 一つの船に三四十羽の鵜を使い、、その運河の水深くもぐっていったかと思うと、やがて意外の水面に姿を現わしバタバタとふなばた目がけて飛んでくる。 そして時々さかなをはかせるのであるが、その一本の竿でよくもかかる多数の鵜の群を追いあしらっているかと思うと実によく手なづけたものである。 

 高い拱橋の上からながめているとその鵜飼い船のかすかに見えなくなるまで羽ばたきしたり、水上にあそんだりしているその景趣が春の水郷ののんびりした気分を一層引きのばしてくれるように思われた。

 第三には橋のたもとにどこからともなくもれ聞ゆる児童の読書の吚唔の声の賑やかなことである。 昔は庠序に吚唔の声を聞いたなどというと司馬温公などの幼年時代を連想するのであるが今の田舎は宋代の延長として見てもよし、隋唐の世に見ても差し支えない。 声の聞こえる方角にひかされていって見たら、寺のよこ手の家で小窓のうちに児女の二三十人もが一人の村夫子先生に教わっているのであった。 

 ちょっと這入って参観しようとするとドンドン皆にげ出した。 怖れなくともよいといったら引きかえして来たものもあった。 三字経や孟子色々のものを、節をつけて音読させている。 寺子屋そっくりの光景である。 橋のうしろにまわり道教の寺へも這入って見た。 「聖神文武」の四文字が金ピカで扁額にかかげられている。 わきに四天王のからだを前にななめにしている立像や紅燭の余燼なども見えていた。 ここは民船の船頭連中の信仰をつないでいる寺らしく拝せられた。 

 なおこのあたりの民屋農家の住まいの破風には多く「福」の字が一字筆黒々と大書してある。 土地の趣味がこの福の一字によく無邪気に現わされている。 こうした田舎の情趣景趣にひたっているうちに紹興曹娥行きの輪船が程近く来る時刻になった。

 

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

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2013年3月13日 (水)

銭塘の煙波江上老農の道連れ<中国を愛す>

 宋代の建立にかかる杭州西湖の呼びもの、雷峰塔の塔影は民国十三年九月二十五日の正午をかぎりとしてとこしえに崩壊した。 折りも折り盧永祥対斉燓元、孫傳芳の戦争の真最中脆くも崩壊の運命にあったものと見えて偶然にも崩れ落ちたのである。

 湖上扁舟に掉す雅客風人の心は三潭印月の左方幽かにこの遺塔遠影のためにどれ位引かされていたことか判らぬが、最早永久に雷峰塔の俤は見られなくなった。 日客の西湖観光もこの古塔の情趣によって清遊の心を深刻にそそられていたのであるが、今となっては唯その対岸の空に、高く細く尖れる保叔塔の孤影を寂しく打ちながむるの外はない。 ありし昔の歴史を物語る遺跡遺物はかくの如くにして現実の中国から夢の如くほろびゆくのである。

 江蘇浙江幾百里と打ちつづく春の菜たねの花に色どられた平野の真ん中を行く間にも時折りかかる雷峰塔を弔う気分おさえ難く、葛嶺、天竺、呉山の諸峰をあとに浙江閘口の手前、南星橋まで火車で来た。 候潮の題字あざやかなる杭州城門を外に出ると車站につく。  銭塘江の義渡はここにある。

 銭塘江岸は汀から四五町も遠浅がつづいているので厚板を渡したせまい仮橋の上をゆられながら足許徐々に一人々々渡って行くのである。 すると義渡の渡船が二三十艘も軸艪相銜んで江心に並んでいる。 向うの対岸、遠きあなたから黒煙を天にあげた小蒸気が先になって二三ばいをあとに曳いて来るのが見える。

 自分は早くもこちらでこの曳かれる民船の窓ぎわ近く見透しのきく所に座を占めて、船頭遥かに銭塘の濁流を悠々と去来する民船の景趣や、右岸遠く仰ぎ見らるる呉山の景観に六和塔の雄景など雲煙裏に打ちながめ十年以来思い出多きこの地方の山水風物に恍惚として見とれていた。

 そのうち、やがて船は満員となり小蒸気の汽笛を合図におもむろに小仮桟橋から離れて江心へと出た。 漫々たる煙波江上、順風暖かに面を吹いて両岸の潤色は深きを加え、いかにもよく浙江気分を現わしている江水は古の呉の国を東へ流れているのであるが、南越に渡る行客もまじっている。 全く文字通りの呉越同舟とはこれであると思って不図乗り合いの面々の風貌を見渡して見る。

 見渡したところ二三十人の同舟者は農夫らしいものが多かった。 自分と膝を差し向かいの目尻のさがった老農を相手に自分はその娘の子の衣装の色や装飾のことなどの話に余念がなかった。 呉越同舟のお蔭で自分は子供の話から老農と十年の知己のように懇意となり、銭塘の対岸に渡船が着いてからも老農は旅行者としての自分を大層いたわってくれた。 途中いろいろの話をしながら春風駘蕩の田舎道を茶亭から茶亭への、行き来の繁き光景の中に同行するわれわれ二人もいつか画中の人となってしまう。

 元来この道は自分が昨年も二度あるいた田舎街道で、勝手も路程もよく分っている。 昨年は沈君という田舎青年を道づれにしたが、今年はまた老農の好伴侶を獲たわけだ。 古老だけに土俗の話を聞くには持ってこいである。 その途中で出くわす里人村翁との挨拶振りに手籠の中の買物の値段の問答までが罪のない大道農夫の談柄として面白い。 別段いそぐ旅ではなし翁の浙江鴃舌の方言が聞きとれぬ時は空の雲雀の囀る音でも賞していればよいので義渡の船が縁で誠によいつれを得たわけであった。

 浙江銭塘江以南の水路運河は西星を基点としてあらゆる方面へ細かく通じている。 自分は東方寧波方面に再遊を試みるのであるから会稽山の東、紹興、曹娥に水路を取ればよろしい。 

 道づれになった老農は、自分の孫の面倒でも見るように、その運河の河畔にたたずみ或いは漕ぎ来たる小舟の方を見たり路上の行人に話しかけたりして水陸両方面の気のくばりかた一と通りではなかった。

 やがて同じ年恰好の丸顔の百姓のかみさんらしいのが二人、手ごろの小さい行李を人夫に担がせ、足は小さく蓮歩ヨチヨチではあるが陽気そうな話しぶりでこちらに通りかかるのを見た。 老農は一つ話しかけて見ましょうと、いうが速いか。

「あなたさん達は蕭山の方へ下らるるのとちがいますか。」

 すると、かみさんだち碑楼の壁の前に立ちどまり、心易げな愛嬌を見せて、答えるに、

「そうですよ、蕭山の田舎へ下ります。」

「デハ、一つわれわれも同じ方に行くのだが四人で舟ではいかがでしょう、日本から遊歴客もここにいられますので。」

 とありのままにいう。 話は快くまとまったのでこんどは舟だ。 いくつとなく運河を続いて下る小舟との談判である。 いくら話しかけても来る舟、来る舟、何づれも皆約束済みか又は違った外の方へ向う舟ばかりである。  丁度よい手頃の小舟が来たと思うとそれは人のハウスボートであって勝手にはまいらぬ舟である。 

 根気よくも老爺は岸から例の黄色い声して舟さえ見れば言葉をかけ船頭と問答をしていたが、遂にうまく一艘を呼びあてた。 そして談判大いにつとめてくれて、結局のところ、蕭山まで五里路を四十銭で行こうということに話しがきまった。 中国では各地に洋人価格といってよく外人には倍に吹きかける習慣があるが、このような田舎では外人を殆ど見たこともない。 従って総ていう通りになっていても間ちがいはない。

 百姓のかみさん達は荷物かつぎの人夫と手を切ってこちらの仲間になり「お先に」とばかり岸の石を押さえ足もと軽く岸から小舟に飛び乗った。 つづいてわれわれ二人も靴をぬぎせまい船内に入り苫の下に足をのばし楽々と座を占めたところが四人で一パイになった。

 二人づつさし向かいであるから、とかく傾きやすい舟であるが、船底は水平をたもち、船頭の艪の音やさしく或いは古色蒼然たる石橋の下、または両岸楊柳の間、民家の櫛比せる裏壁の広告文字の下などを漕いで行く。 船内では尻あがりの浙江なまりで、いかにも百姓らしい田舎のまつりの話しに買い物などの話しが始まる。

 城外に出ると運河の両岸一時にパッと開き天空開豁のあかるみをあびた乾隆道光あたりの碑楼の列が高く眺められる岸の叢、清い水汀のあたりから小鳥が二三飛び出し楊樹の陰に消えて行く。 行きちがう運河の船の客には百姓らしくない相当の身なりのものも見当たる。 自家用の船ででもあるか彩色を施した美しいのが橋のたもとに静かに泛んでいる。 実に平和な江上の景趣で日本の画家にも見せたい佳郷である

こうした平和な水郷の情趣に浸りつつ楊樹の新緑の下を漕ぎ行くこと一時間余。 再び舟は城内らしきにぎやかな運河に奥深く漕ぎ入った。 例の裏壁高く両岸にそびえ宏壮な白亜の大壁に窓一つなくこれに「當」の字たった一字だけが十二三尺の輪郭に書かれている。 金持ちの質屋の看板とうなづかれる。

 また「山珍海味」の大字の黒書、これは乾物屋と読まれる。 裏口の石段水際におりて洗い物せる家人のうちの壁にはこれも大字にて「染坊」とある。 染物悉皆屋たることがわかる。 また手斧の音するうちに「水木両作」とあるこれは大工左官兼業の店である。 これで見るとかなりな町であらねばならぬ。 昨春城内の陸の方から見ていた蕭山の城内はこれだ。

 さすがこの辺での大きな町であると思って見ているうち巍巍乎といっては誇張過ぎるが右方に当たってかなり高い白亜の壁に楷書で「浙江第一旅館」と読まれた所に我が舟は横着けされた。 老農は到了という。 

 それではと船頭に勘定しようとしてもどうしてもさせない。 三人はまだ先が遠い。 さき長く乗るのだから決して御心配などは・・・・・と二人のかみさんまでが一生懸命。 そして一路平安をと心から祈ってくれて石段に上って見送ろうとする。 その小さい足に対しても恐れ入る訳である。

 一時同船しただけでさえこれ程の縁だ、況して銭塘以来舟に陸に行を共にした老農は盡きぬ名残とてわざわざその老躯をひっさげて石段を上り旅館の賑房のところまで自分を案内し且ねんごろに番頭や館主に自分を紹介してここは浙江第一の旅館なればと第一室に室を取り極めたところまで見届け別れを告げていった。 この美しい純樸の印象は永久に自分の頭から去らないことであろう。

(後藤朝太郎著「支那游記」<昭和二年発行>より)

 

 

 

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2013年3月10日 (日)

旧時中国における兵隊と戦争の実相<中国を愛す>

 中国の世相に見る動乱騒ぎといえば、全く民国の名物の一つのようにも、見られているほどであるが、然し中国の兵隊そのものは、一人として国家から徴せられているものではなく、いづれも皆傭兵として雇われているもののみである。 いわば一種の被傭人で、その兵隊募集の掲示を見つけて、これに駆けつけ応募した人間に過ぎないのである。

 その田舎の農村、運河の船着き場あたりで、ごろごろしていたりするよりか、兵隊にでも応募して隊にはいっている方が、何ぼか懐の都合もよいと思っている者、又は失業者で困っている手合いどもが駅前とか、城門とかに掲げられた広告を見て、その文字こそは読めないにしても、近所の朋友が兵隊に応募するのを聞き、又それに死ぬるときまっている訳でもないから、自分もまず遊んでいるよりかよかろう位のところで、馳せ参じてきたものである。

 まず大抵はこの辺が本当の兵隊になる始めの動機なのである。 決して国家のためとか、君のためにとか、又軍備拡張のためにとかいう八釜しい考えからなっているのではない。 かかるものは一人もないといって差支えないのである。 

 募集する方のものの考えにしたところで、まず本部で人夫でも募るようなつもりで、月給六ドル、戦時手当五割、年齢十三歳から四十歳まで、希望のものは、至急最寄りの衛門まで届出でらるべし、といったポスターをだすだけのことで、それで十分である。

 万事国家本位でなく、社会本位に出来ている中国のことであるから、兵隊そのものも始めから国防本位の兵隊でなく、それで少しも構わない。 唯その主人公総司令その人の護衛兵たるに過ぎないので沢山である。 しかもそれと同時に、世の貧者失業者の救済せらるるとの目的が達せられているなら、それでよろしいという訳なのである。

 奉直戦争の真っ最中、北京市内城南公園でぶつかった珍無類の一場景。

 ぶらり散歩に出かけた私が、園内の一ベンチに腰かけて休んでいると、これまたぶらりとやって来たのは、鼠色の軍服を無様に纏うた二人の中国兵だ。 此方が中国服姿なものだから、先方では何の気も置かなかったらしい。 いきなり私と背中合わせのベンチに腰を卸して、頗る睦まじそうに話し始めた。

 所で後で気のついた事だが、この二人は、一人は奉天軍の服、又他の一人は直隷軍の服をつけていた。 そうすると彼等は、今正に干戈を交えている敵味方同志の訳だ。 それがこんなにしている所を見ると、大方両人は昔の友達か何かなのだろう。 兎も角も二人の会話が私の耳を打った。

「そいで、お前の方では月に幾ら寄越すんだい?」

「六弗くれるよ。 但し被服は別だぜ」

「へーえ、そいつは莫大にぼろいね。 驚いたなどうも。 俺lンチの方じゃァお前、たった四弗なんだぜ。 おまけに服は各自自弁と来てやがらァ。 嫌lンなったな俺ァ」

「ふーン、そ、それァ酷えや。 だがまァお前、そう悲観したもんでもないよ。 お互いまともでいちゃァ月一弗の稼ぎだって出来やしねえ。 それが斯うしてフラフラしてれァ、兎も角も月、四弗五弗の銭が天降って来るんだからね。 全くお互いにとっては打仗(ターチャン=戦争)様々だよ」

日本でいえば差し向き、会社の下っ端か小使辺りが、茶飲み序に持ち出す給料の愚痴話。 それを今正に打ち物を交えて、命の遣り取りをしてる敵味方同志が、斯くも悠然として語り合って居るのである。 私は思わず微笑させられた。

 全く中国人の戦争に対する概念は、日本人などとは根本的に違っている。 彼等にとっては、戦争は何処までも一つの大きな社会的の芝居か、乃至は劇に仕組まれた筋書ぐらいでしかあり得ないのだ。 むきになっているのは、戦争を起こした中国の当事者だけで、一般国民や平の兵卒は、見物気分でそれに対しているに過ぎないのである。

然らば、戦争に対して「何が中国人をそうさせたか?」 或人は、これを伝統的な中国の国民性に依ると説明する。 悠長気長、一口に云えば、万人に対して呑気極まる彼等の通有性が、然うせしめるのだという。 だが我々は、そういう唯心的な見解を立てる前に、先ず中国国民を包む環境に観察の目を注ぐべきである。

 涯<はて>知れぬ茫大な領域内に、四億に余る民を擁する中国は、日本などと違って、一国民が打って一丸となって事に当たるなどという、真の国家的事件に遭遇した事は殆どなかった。

 「義重萬岳。 死軽鴻毛」とか、「一死以報国」とか、文字の上でこそ、麗々しく唱えられたが、事実国家的にそれが実現された事は、古代は兎もあれ、近世中国では殆ど見当たらない。 戦いといえば常に内乱である。 飽き飽きする程の国内の動乱である。 

 殊に清朝の仆<たお>れて以来、最近の二十年間というものは、各地に割拠した軍閥の巨頭共が、殆どのべつ幕なしに争いを続けたので、中国国民の戦争に対する態度は、「又か」という嫌悪、乃至は対岸の火災視的の無関心となり了ってしまった。 

 そこへ以って来て中国は、元来国民皆兵主義でも、徴兵令の布かれている国でもない。 だから戦争が始まるとなると、一般から募集して兵隊を拵えるのが習いだ。 募集して雇う上は、勿論給料が出なければならぬ筈である。 給料が出るとなると、何処も同じ食えない人種が、きっとゾロゾロ集まって来る。 集まれば集まっただけ、別段試験をするでもなく、一夜づけに編成したのが、即ち中国の兵隊である。 

 云って見れば掻き寄せ乱造の豼貅<ひきゅう>だ。 斯うした連中に対して、戦争に熱を持てというは、言う方が無理な話である。 彼等は唯、食えるから兵隊になったのである。 戦争の有る無しなどは、頭から問題でもない。 手当さえ毎月取れればそれでよいのだ。

 こんな次第であって見れば、現在干戈を交えている敵味方が、のんべんと手を組み合って給料の愚痴を並べる珍場景の現れるのも、蓋し無理からぬ事であり、且又中国の戦争といえば、大方が宣伝戦、誘惑戦、密偵戦であって、死者や負傷者を出す正面の衝突戦に、容易に移らない理由も、瞭然と頷けるであろう。

 要するに中国では、兵隊になるという事は、失職者がパンを得る道であり、戦争という事は失業苦を緩和さす事件なのだ。 所変れば品変るというが、厳粛森厳なるべき戦争沙汰が、社会全局面から見て、立派な社会政策に拠った失業救済事業となっている事は、蓋し中国だけに見られる現象であろう。

さて以上は、一般国民や平の兵卒の戦争に対する態度であるが、今度は、戦を始める当事者たちの戦争観はどうか? 一言にいえば、それは商取引、投機事業以外の何物でもない。 尤もこれは国民一般にも押し擴められる戦争観で、「戦争のどさくさには屹度一儲け出来る]というのは、中国民衆の誰もが持っている考えである。 

 往年張作霖に寝返った郭松齢の首に、二十万元の懸賞がついたなどという事は、その好い例だ。 何処の誰でも構わない。 唯問題の首さえ持って行けば、それで忽ち一攫千金の夢が実現するのだから、「戦争はぼろい」と考える様になるのは、誠に無理もない話だ。 「上の好む所、下これに倣う」というが、中国の戦争程、この言葉に良く当嵌まる例はない。

 元々何の大義名分も翳す事なく、唯投機の一点張りで、当事者達が始めた戦争である。 その下の幕僚達も、頭から戦争など超越して、儲けにさえなれば、どっちへでも寝返りを打つ。 形勢観望、洞ヶ峠は彼等の常套手段だ、だからそこへ暗中飛躍の策士が横行する。 これも同じく我が利の為に動くのは、今更いう迄もない。

 策士が横行すると宣伝と流言飛語が必ず生まれる。 流言飛語が生まれると、本元の当事者の真意は、果たして那辺にあるのか猶更分からなくなる。 一切が混沌、一切がどさくさ。 戦いの火蓋が切られたと思うと、もう既に休戦の条約が交わされているなどという例は、中国の戦争では常任のことなのである。

 それというのが即ち、戦を始める手合が、上から下まで総て、其の戦に依て何程かの得分にありつこうと企んでいるからなのである。

 駆け引き、又駆け引き、その一切が取引的、投機的企みに終始している珍無類な戦争、それこそ中国独特の戦いなのであるが、我々はそれを唯可笑しいと笑う前に、先ず深く「何が中国をしてそうさせたか?」を熟考すべきではあるまいか。

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より)

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2013年3月 8日 (金)

中国俗間に見る財神信仰<中国を愛す>

 中国の人々の平素神仏に対して祈願するときの様子を見ていると、必ずしもそれが勝負事とか、又商売ごととかばかりでなく、病気平癒の事であっても又悪魔祓いの事であっても、何でもかでも総べて皆意中を神様に依願をしようとするのである。

 中国の神々は低級と云うわけでもないが、しかし人情味に充ち満ちている。 俗人の云うこと、つまり露骨に云うと自分に都合のよいようなことは、神様がすべて叶わせてくれるものだと云うように考えている。 こちらの持って行きかた次第では如何ようにとも懐柔の出来るものである。 いくらやかましい神様でも、民情で口説き落とせば落とされるものだと云う心持ちが、すべての民衆にある。

 これが証拠には中国俗間の神祠祀堂にはその為の扁額が掲げられ、祈願達成の御礼のしるしでもあるか知れぬが、需<もと>むるあれば必ず應<おう>ず。

『有 求  必  應』

などとある文字をよく見る。 これは必ずや神々を人間と同体程度に扱った神様であると見て物語れるものである。

 そこで中国の俗間で財神廟あたりの祭壇へ行って見ると、香華の供物をしたり、藁製の茣蓙に持って行って三拝九拝をしたりして祈願をこめている光景を見ることが多いのである。 そのときその祈願者は口に名号を誦じながら、爆竹を揚げるとか、ユワンパオ<元寶>を焚くとか云うことを必ずやるのである。 

 その爆竹を揚げる事は云うまでもなく、悪魔祓いのために催さるるものであって、誰れでもあれ程の破裂音を聞かされるときは逃げて行く。 びっくりするのである。 その悪魔を逐い放っておいて、そして次に神前に元寶を焚く。 是は神霊に告げるしるしであって、元寶とは馬蹄銀の形をした紙製の寶を云うのである。 糸に吊るされたる数多の元寶を四くさり、八くさり、十六くさりといくらでも沢山焚く程神前に供え物を多くした形となる。 之を焚くことは之を捧げたことになる。 

 そは銀紙を折って造ったもので、軽いから幾くさりでも手に提げて廟内へ参詣に来るのである。 又廟前の銀錠商の店ではそうしたものをどっさり売っている。 中には天井から壁から丸で 元寶で埋めているような店も見当たる。

 これらのユワンパオ<元寶>が溶けて行くと云うことは、一つに皆その神様を喜ばし、神意が自分自身の心持ちを買ってくれるのだ、と見ているによるのである。 かようにして平素から神の心を喜ばせ、仲良くして置けば、求むる所のもののあったとき、必ず神様は自分の心に応諾をしてくれると信じている。 甚だ以って俗な考えのようにも見えるが実際俗なのである。 而もこの俗の俗なるところが、即ち中国の民衆一般の心を表現したところの実相なのであると断言してもよろしい。

中国の地方々々では関帝廟の参詣に、城隍廟のお参りと云うが最も盛大を極めている。 しかし又之と相並んで財神を祭った財神廟が民心を牽付けていることは非常なものである。 財神とは手に如意を有し又馬蹄銀を擁し、豊顔長髯の姿をなしているものがその常態となっている。 財神が馬蹄銀を持てるはさながら、壽星長寿の神が献壽の桃を持てると同じわけであってその神の特徴が表現せられたものと見らるのである。 

 その地方で財神廟に祀らるゝ神像は必ずしもその姿が一定していると云うにはあらざれども、然しその馬蹄銀を擁している処だけは動かない。 今日馬蹄銀は市場の大取引の際に、便宜上使用せられているもので、之を普通の通貨と見るわけにはいかぬ。 けれども民情之に無限の興味と牽引力とを有している関係上、かなり古い神像にてもその木彫の片手に馬蹄銀の一塊が持たせてあるのを見る。 中国民情の中心たる底力は恐らく此の一点に在ると云っても過言ではないのである。 一塊の馬蹄銀にしても、優に之に磁石のような牽引力が存しているのである。

 中国財神廟の神祭となれる木像は多く金ピカであって、見るからに之に寶の神としての気持が漂うている。 それに民衆の興味の中心たるものを持たせている意匠は恐らく、参詣者を引付くる大切なる一手段となっているのである。 之が為に万民が心から牽付けられて行くのであるから、俗間ではかなり栄えている廟の一つとなっている。 

 ところが今日の留学生であるとか、その他新思想に染んでいる手合いであると、此の種の迷信がかった本廟の話をされるのでさえも、迷惑そうな顔付きをする。 又孔子廟の話でさえも顔をそむけるものがある位である。 されば財神廟の話は一切中国青年の連中に話題に出して見たとこで、嫌わるるばかりである。 

 之に反して、老人たちと来たら一にも二にも三にも財神である。 財神でなくては夜も日も明けぬ。 勝負事に少しでも運がわるくなると、財神廟の庇護足りなかった為であると云う風に考えている。 或は財神に対する懐柔法が足りなかった為にその御利益を下げてくださらなかったのであると云う風にも考えられている。 

 全く老人やその善男善女たちであると『物も相談だが自分共も十分に御願いをし十分に供え物もしておくから何分よろしく』云々と云った処を露骨に現わしているのである。

その為め家運が傾き財的に心配な事が持ち上がったときなどには、早朝からして、老婆だの細君だの姉妹だの云うものが、五六人も打連れて提籃にウント御馳走まで詰めて来て神前にそなえている光景を見る。 さながら債権者か或は今から金でも貸してくれる人を迎えて、之に御馳走をする心持と少しも変わらぬ。 殊に爆竹で大いにその景気をつけたりする処など最もよく似ている。

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より) 

 

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2013年3月 6日 (水)

中国人の街路生活に見る甘辛人情味<中国を愛す>

 中国で往来行人の繁き盛り場を通って見ると、軒並みに吊るされた看板には、五彩の文字も鮮やかにその路傍には、行人を目当ての蘭の花束や仏手柑など売っている男があちこちにいる。 又赤本黄表紙や筆墨の類など、ニコニコ愛嬌を湛えつつ客を呼んでいる者も見当たる。

 又中には賎民らしき男が見も知らぬ往来の紳士淑女に親切を売りあとをつけ、真夏炎暑の厳しい折柄とて頼まれもしないのに、頻りとバタバタ、さも鰻の蒲焼でも作るような要領で煽ぎ立てている。 

 この男始めの程は成るべく感づかれないようにと加減をしていたらしいが、相手の心が読めて来ると云うと次第に力を入れ、然るべく大の団扇を、上下に風を送リ送り涼味を献ずるのである。 

 物の五六町も煽ぎ続けて来ると、雑踏の中を益々露骨に行き、その手を弛めようともしない。 やがてその紳士の辻から曲ろうとか門内にでも這入ろうとかする時が来ると、正面に廻り姿を現わし件の団扇を指しつつ「老爺、御心ざしを頂戴いたしたい」と出るのである。 

 こはその労役に対する当然の要求であると、心得ている為でもあろう。 哀れを求めて恵んでもらうなど云うけなげな態度は少しも見せない。 のみならず、若しその額でも少ないと見た時は倍額の要求をして開き直る。 そこに遠慮も何もあらばこそ、無論十角や二十角喜捨されたにした処で、有りがとうの礼一つ云うでない。  

 こは路上の車夫が車賃を受取った時の気分にも似ている。 その辺の気持は、我々の常識からは、判ぜられぬ処であるが、こうした立ちん坊風情のものでも、中国世相の裏に潜む思想の流れは、おのずから解されている事実がこの一事によって物語られていることと思う。

 又、下層苦力<クーリー>たちの普段の生活を見るに、その路上を行くに、一日の仕事を了えて休むにも、可愛い小鳥を止まり木に止まらせ口笛軽く小鳥の相手になりつつ、目尻も細くさも楽しげに歩いている小景を眺むる。

 又時に大の鳥籠を提げ、往来の群集を避けつつ、公園や城隍廟指して出浮く者なども見る。 蘇州城外で見た小鳥の飼い方に依ると、タンポポの花の心に潜める柔かい白虫を捕え、之を餌となして、専ら美声を出させることに腐心していたのであった。 

 この小鳥愛の風習は中国全土に亘って広く行きわたれる優美な趣味生活の一方面であるが、この風懐がその日稼ぎの連中にまで、かくも深く食い入り、衣食住同様立派に、その生活の中に織込まれ、従ってそのいくら忙しない時でも、小鳥の世話を怠るようなことはないようである。

 又銭荘、銀行その他、商店辺りの窓のところを見ると、外壁の日当たりのよい処を選び、小鳥の声美しき鳥籠の吊るされたのが目を牽く。 働いて居る人たちは店の帳場で算盤を弾き相場の勘定に従事しつつも尚且つあたまは帳尻の一方に囚わるることなく、時折り小鳥の方へも気を配って居る。 中食後その鳥籠をおろし、愛撫して居る様子と云ったら、奥ゆかしく眺められ、客の方でも亦、小鳥に牽かされ、店に立寄るものが多くなる訳である。

 外国人の見方からすると、かかる趣味、風雅の嗜みは、総べて精神の集中、能率の増進に百害があり、だらしなき遊びであるとして喜ばれない傾向がある。 中国街の人たちに云わせると寧ろ小鳥愛そのものこそ人生の本体であって、算盤の方は、ただ生きんが為の一手段に過ぎぬのだと云っている。

 従って人生を美化し、芸術化することは、即ち中国大陸生活の第一義であるとかように見ているのである。 農夫、漁翁、花売り、苦力たちにしても、皆この辺の気持が判っていることと思う。

 又夕暮れ散歩をしていると、辻の一隅に黒山のように人のたかっているのを見ることがある。 何事にやと中国服、中国帽姿で、目立たないよう自分も気軽い気持ちで、その中へ割り込んで見る。 中に這入って見ると、一人の盲者が面白く節をつけて、浪花節式のものを歌っているのに耳傾けているのである。 ほんの立ち見の形であるが、心から皆よく聴いている。 

 寄っている大衆のうちには、一とりふたり立ち去る者もあったようだが、そのときは、必ず銅銭の二三枚は喜捨して行く。 次に立ったものも亦そうして立つ。 帽子を倒様にして、集めに回る者のいる所もあるが、ここには、それは居ない。 それでも環堵の大衆は只で聴きぱなしにするようなことはしない。 きっとこう云った路上の立ち見をする催しものには、心まかせの喜捨をして立ち去る。

 こは,華北華南至る処同じことで、ここに純朴愛すべきものがある。 特に催促するものがある訳ではないが、自発的に投げて行くと云った美風の見らるるのは、思うに中国下層民に対する社会政策が、実現せられている為であると思う。 細民の間の行楽に、この数枚にもせよ、銅貨の投ぜらるるは老いも若きも之を当たり前の事としているので、ここに無限の情味が窺わるる。

 又路傍に可憐の児女が、烤白薯(焼甘藷)を買いに来るのを、そばで見ていてもその時、いもやが手渡しているいもの数、いもの計算を見ているに、その銅銭に相当するまで僅か計りの切りいもでも加えている処など、俗語に「童叟無欺」とある言葉その通りに行われ、見る目も気持がよい。 

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より)

 

 

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2013年3月 5日 (火)

利益を度外視する中国商人の心持<中国を愛す>

 日本では一般に、散歩の序でに小売店を訪ねたとしても、何だかせせこましい感じがしてならぬ。 いつもひやかしてばかりいる訳にもいかぬと云う気持のするのは勿論、鵜の目鷹の目で見張られているような気持もする。

 尤も日本人の多くは店に這入るなり、水雷艇式にその求めんとする処を一言で語り、その有無を聞くや直ぐ出て行くと云った、心あわただしい訪ね方をしている。 いかにもビジネス一点張りの世の中であるから、さうそう悠長なことを云ってもいられぬ。  この点になると、北京あたりの商い振りと、その主人の気持ちが何となくなつかしい。

 中国の小売店では主人と懇意になれば年一度でもよい。 まとまったものを求めてやるようにすればいくらでも交誼が繋がれる。 そして時には粗相をして大事な品物を指で押し破ったとか、取り落として割ったとかすることがあったとしても、主人はメイファーツ<没法子>仕方がないと云って根に持つことはしない。 少しもいやな顔をしない。 その為却って恐縮することがある。

 自分は北京の東四牌楼の或る古玩店でそうした体験を有している。 あとで別にそれを償うだけのものを求めて済ましてもらったことがある。 紳士的に面子を重んぜしむるこのやり方は気持のよいものである。

 それから又中国ではあんまり物の価をねぎっていると、却って主人から気をきかし、禅の問答みたような調子で以って、客を例の後房に請じお茶など出し始める。 少々薄気味悪く思っていると、いずくんぞ知らんこう云ったことを云う。

 「どうしてもあの品物がお気に召すなら、自分としては品が閣下の御目に止まっただけでも光栄に思っていたのだから少々御待ち願いたい」

 「今すぐ進物として包ませ閣下に贈呈することにいたしたい」云々。

 と云う。 こう云ったように高く大きく上品に出られては、何と云ってよいか。 挨拶の辞に困ってしまう。 今更いらないとも云えず、さらばと云って、大金を云い値通り払う気持もせず、進退両難のヂレンマに陥るのである。 しかし主人は明るい気持ちでニコニコ顔しながら尚つづけて云うに、

 「この品物が、閣下のような好きな方に愛してもらえるとは、品物にとっても幸せであります」

 うまく持上げてしまったものである。 こう出られては歯の浮くような思いがして、結局それでは折角だから……と云ってもらい受くるの外ない。 かくの如き行き方は上海あたりの目から鼻に抜けるような商店老舗には見ない。 矢張り北京でもリュリチャン<瑠璃廠>あたりの脱俗したところでなくては見られないのである。

 それも度々あることかどうか知らぬが、自分は先年一度体験したのである。 有りがたいような責任を負わされたような、そして又懐かしいような気持ちのするものであって、面白い事もあることかなと感じたのである。

 その後も遊歴の度毎に訪ねると主人自ら「ラオポンユウ<老朋友ー親しみの呼びかけ語>いつ帰ってきましたか」など懐かしげに云ってくれるので悪い気はしない。 こう云う気持に浴していると云うと、文雅の友と云った感じがして、用はなくとも店に立寄り熱茶をすすりながら、翰墨談の一つもして見たくなる。

(後藤朝太郎著「隣邦支那」<昭和十二年発行>より)

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2013年3月 4日 (月)

中国人に反映する生活要領<中国を愛す>

 日中事変の話であるが、皇軍の前線にありて、その武力戦の闘いのない時になると徒然に暮らさなくてはならぬ事がある。 恐らくこれという仕事のない時は、中隊長か誰かからか提案がある。 それは日本兵とそれから俘虜になっている中国兵とでお互に相撲でもとって見たらと云うことになる。 いよいよ相撲の幕となると、流石は日本の青年兵である。 武力戦に勝っている日本人の事とて、いくら素人角力だとは云え両国の個人同士の力較べとなっても強い。 又負けてはたまるか、こいと来る。

 こう云った心構えと覇気とは、あらゆる日本人の胸中に持ち合わされて居る処である。 そこで土俵と云う程でもないが畑地をうまく作り直し、土俵が出来上がる、これへ日本兵からと俘虜側とから一人一人出るのである。 果たして衆人環視の中のこととて見た処日本兵はからだは矮小であっても皆胆、甕の如しである。 一人として大和民族は負けたりなどするものではない。 実に鮮やかな勝ちかたをするのである。 中隊長殿も之を見て目を小さくして喜ぶ。 

 しかし,折角の日中両国兵隊の腕比べの相撲なのだから中国兵の方でも少しは努力して勝って見る様にしたらどうだとやったものだ。 余りの連戦連敗は中国兵とても張り合いがないだろうとの事で中隊長殿も同情のあまりかように情を籠めて云って見たものである。 

 

 すると言下に中国兵共の云うのには、努力して勝って見よとの事であるが、然らば勝ったとしたら褒美に何か頂けるのですか云々とやった。 そこでやるとも、香煙<タバコ>一本づつやるよ。五人勝負で勝った者には一函をおごるよ。十銭やるよと出たものである。 

 すると耳の鋭い中国兵はそれならよろしいですと決心したものと見える。 そこで始めから皆相撲のやり直しである。 東には日本兵、西に中国兵と分れ、ここにいよいよの腕較べの幕となったものだ。

 そのとき始めに組み合わされた日本兵と、中国兵の陳某。 じっと目と目を見合わせていたが、やがて四ッに組む、そしてお互いにうまくやっていたようだったが、豚肥えの首筋を光らせていた陳某。 大分力が這入ったと見る間にやった。 どうしたはずみか日本兵の方は残念にも投げられてしまった。 それから次いで又鄭というものが出て次の日本兵が組み合わされたのであったが、こっちが又やられてしまった。 その後次から次へ、とやったものだが、どうも中国兵の方がいつも優勢であって、日本兵は振わぬ。 時に一勝一敗はあった事はあったが、要するに大体日本兵の旗色が悪いのである。 

 そこで中国兵がどうして急にそれほどにうまくやるのかと聞いて見ると、前に最初相撲だという時は、何も頂けなかった。 只働きであったのだ。 だから力が出ぬのである。 又出す気もしなかったのだ。 処があとからシャンエン<香煙>なり金なりを賞与とすると聞くに至っては一臂の勢を惜しむわけにはいかなくなったのだという。 一文にもならぬ時は力を蓄えておく。 努力しても馬鹿らしい。 だが、報いられる事がわかれば今度はこの通り懸命にやるだけのことであります。 云々。

 この話は一つの教訓を含んでいる。 日本兵と中国兵の間のみの心理だと解する問題だと思われぬ。 すべて中国の人々の気持の中には些細な事にでも実際的の処がる。 無駄な力を出したり等するのは勿体ないと考えている。 動いただけでも損だ。 何もしないでじっとしている方がましだという考えが無意識に働いているのであると解釈せられる。 この一事実を見て、どう考えなくてはならぬか。 これは実に大きい示唆を与えている問題であろうと思う。

 極端な例で云って見ても、そこにはなかなか穿った話題がある。 例えばステーションで人がその切符を求めている間に、何か持ちものがスリによって取られている現場を見る。 ハッキリ判っていてもその取られている人に之を余計な事なりとして注意してやることもせぬ。 人の事は人の事なり自分に損も得もない事なりときめて居る。 物を落としていても忘れ物をしていても、その場で注意一つしてやろうともせぬ。 吾れ関せず焉をきめ込んでいるのである。 自分に関係のない事ではどんな騒ぎが起ころうと、之に走ったり、仲間入りしたりすることはせぬ。 頼まれもせぬ事に手を出したり、口を出したりした処で意味をなさぬとしているのだ。

 碼頭あたりで労働者苦力達の団体があちこち荷役をしている。 そして甲の団体の方が早く仕事を了えた後で骨休めをしている。 その中にポカンと口を開けて無駄話等している者もあるのだ。 乙の団体は仕事半ばにしてまだ懸命にやっている。 手が足りなくて困っているらしいのである。 それども一方の方がお手伝いして助けてあげましょうか等とは云わぬ。 要求依頼の交渉でも云って来ない限り、余計な事として手助けをするなど云う事はないのである。 そこにはいろいろ理由もあろうが、日本人の場合とは丸きり気持が違うのである。 

 これは頼まれもせぬのに手を出したり、余計な世話をやいたりすると、それだけでも腹が減る。 エネルギーが消耗する訳だ。 自分だけがそれよりも完全に保ち守る方が如何に安全であるか、いかに賢明であるか知れぬと見ている。 うまい中国料理をたらふく頂いて、そして成るべくジッとしているのだ。 益々身は豚肥えに太る一方なのである。 自分に安んじ以って意を養うと云うのが一番よい心掛けだとしているのが多い。

 坂の道を荷車を引き上げているのは見るに忍びぬ。 通り掛かった者は之を助けて押してやるのが人情である。 所がそうはせぬ。 交渉もない時に余計な力を消耗し、空な名を得たからとて何になるか、と云う実利的な気分の持ち主はかなりあちらに多くいる。

 勿論士君子の間にはかかる気分の者はいないであろうが、ややもするとかかる心構えでいる者を常識のある者となしている事がある。 之が中国の家庭生活に、いかに節約気分として表れているか。 つまらぬ事には一厘一毛も出さぬ。 旅行のとき宿に泊まっても余計なチップをおくことはせぬ。 日本人の如くその為に宿の勘定の時苦労する者は笑われている位である。 一割以上のものを出すは冗費なりとして見られているのだ。 この一事から見ても日本人の考えと大分開きのあることがわかるのである。

(後藤朝太郎著「四億萬の御客様」<昭和十五年発行>より)

 

 

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2013年3月 3日 (日)

日本軍占領地域で迎える中国の正月<中国を愛す>

 

皇紀二千六百年(昭和十五年)の正月位東亜にとって目出度い正月の佳節はない。

 従来ややもすると、日本人は中国人に対してでも日本の年号のみを唱えていたが四億萬からの大陸良民達の気持を察して見ると、万里同風の心構えを以って大陸人には大陸の年号を尊重してやるだけのゆとりを持ちたいものである。 

 満州国は康徳の年号を用い、日本は昭和を用いていると同じ様に中国人には民国何年と云う習慣をどこまでも立てて之をお互いに尊重する気持になるのが本当である。 又そうすることが友邦に対する礼でもあると思う。

 地名や人名、年号をややもすると日本人は日本式で以ってこちら本位におしなべて統一してしまいたいと云うような気短い心構えを見せる者がないでもないが、それは甚だ器の小さい事を示すわけになる。 やはり中国はどこまでも友邦なのだから友邦としてその年号に敬意を表すべきである。

 この度わが皇国の御稜威と皇軍の涙ぐましい活躍とによって、こうして吉慶裏の新年を迎え得たとは云え、正月の年中行事を始め文化方面の事をよく考えて見ると、そうそのすべてを無条件に日本がここ迄伸びあがり大きくなって来たとは云えない。 過去久しい間、中国の文化に浴していた事のあったという事実はどうあっても吾人の忘れてならぬことである。

 

 これから毎年毎年幾久しく新年毎に日本の人は大陸の人とお互いに新年の御慶新禧新禧万里同風を繰り返し述べ合うのであるが、こちらとしてはいつも過去の文化を忘れぬ様にする気持だけは失いたくないのである。 この念さえあるなら日中両国お互いの間に気まずい事など起るわけがない。 念頭に於いてこれは何でもない事ながら必ず想起するように致したいものである。

 

 祖国の恩とか祖先の恩とか云う考えは年と共に感謝の気持ちを高めて行くべきものであるが、それは心ある者の誰しも考えている所なのである。 それと同じように、遠き文化の恩沢と云うようなものは之を粗末に考えてはならぬ。 必ず今日を思うとき顧みて過去の遠い間のことまでに考えを及ぼして行く。 もとの文化は自分どもの恩義のある文化として重々しくあがめ尊重するの心がなくてはならぬと思う。 日本人は富士の高根を仰ぎあがめ、四方の神々をあがめ拝すると同じような心理を以って、中国文化の古い処の幽玄味についても考えたいものであると思う。

 

 正月の儀式風習について一般的にひろく見て来ると、日本ではその歴史上から考えても色々の方面にわたり、例えば、

 その一  朝廷(公家)

 その二  武家

 その三  民間

 その四  神社

 その五  仏寺

 などに分けて考えられるが、その多くの慣例、方式が大陸文化の直接間接影響を受けていないものはなく、そこによほど考えをいたさなくてはならぬものがある。

 うっかり日本独特のもののように口幅ったいことを云っていても、それは王朝時代以前ちゃんと中国の唐の頃に這入っていた大陸の風俗そのままであると云うことがある。 その辺は少し遡って静かに日本歴史をしらべて見ると争えない根拠があり、あちらから来ているものが多い。 単に風俗上のこと飲み食いのことをのみ挙げて云うのではない。 そこにかなり複雑にして荘重なるものも、どっさりあるのである。

 日本にあって、正月の年中行事の事を考えると、先ず畏<おそれおお>いことであるが、元旦の四方拝の儀式の事から考えなくてはならぬのである。 即ち古いところから辿って見ても色々細かい事がある。

 少し古典、故実、歴史に趣味を覚え、過去の日本文化を心得ているものは誰しも中国文化のお蔭によって、従来の日本文化の精華が光輝を放っていたのであることを承知している。 現在の日本のお互いの姓名、郷土の地名文字から毎日の新聞紙上に見る新語、占拠、爆撃、宣撫、慰問袋、国防拠金、白衣、凱旋将士など、すべて中国から来た文字によって表現されているのだ。 和魂漢才の域は厳として守られているものの、ともかくも過去日本の文化方面が中国大陸の精華に浴していること莫大なものがあったと云える。

 正月の年中行事は僅かにその一部を示したに過ぎぬが、それさえも古く遡って見ると、中国の色彩がすべて濃厚に見られるのである。 世の欧米ばかり歩いて中国を見ていない人、又欧米の文化にのみ酔って米人からペン書きのサインをもらい、うれしがっている人達には、こうした日本年中行事の過去に中国のおかげがあったことなど話しても受け入れられぬかも知れぬ。

 昭和十五年の正月、即ち民国二十九年の正月というは普通あり来たりの正月と丸きり違う事は、前にも云ったとおりである。

 がそれであるのに、若し日本人が日中事変の途上に見る武力のみの勝ちいくさに酔いて、勝ち誇ったり、聊かたりとも浮薄の気分から中国文化をあたまごなしに馬鹿にし、一にも二にも、中国といったら之をつまらぬように、けなしてかかるような、判らず屋がいるとすると、-まさかそんな人はいないと思うが、-そは日本の歴史を軽んずる人であると云わなくてはならぬ。 否自分の国の歴史に対して明き盲であると評されるわけである。

 昭和十五年と云うような吉慶極まりなき正月を迎えることは、日中両国民にとりて又とないことであるから、お互はその鴻恩の有りがたさに感激すると同時に、将来武力のをさめられた後の日本人というものは全力をこめて、大陸の文化の過去を顧み、又現在といえどもいくらでも採るべきものが華北に、華中に、華南にーつまり全中国の水村山郭随所に求められるわけであるから、その長所をとり、日本の短を補うようにして、日本の幸福を増すことを考えると同時に、中国住民を始め、新しい政権による国家そのものをも栄えしむるよう、大きい心構えになって尽したいものである。

 それにはこの正月からして、あまり無理押しをしないようにして出来るだけあちらの風習信仰気持を尊重することを強調しておきたいのである。

(後藤朝太郎著「四億萬の御客様」<昭和十五年発行>より)

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2013年3月 2日 (土)

日中間のことは理窟を抜きにして<中国を愛す>

 日中間の交誼を厚くすると云う立場からすると個人的の交誼、交際上等に決して日本の国力の強い事を鼻にかける様な態度を見せてはならない。 又之を口にすべきものでもない。 これは金持が巨万の富を鼻にかけるのと同様に相手の気持を悪くさせるものである。 相手を不愉快ならしめる者である。 とかく金持は相手をして泣寝入りの状態に陥れて平気でいる。 かような事は殊によろしくない。 上司のものの前で低頭平身する癖に相手が中国人と見ると随分見縊った事を云ったり馬鹿にした態度をとったりするものがある。 中には又相手を、どうせ叶わぬと諦めさせなくては駄目だぞ等云う者もある。 理窟と実際とは大分違うがこの考を以って臨む者が多い様に思われる。

 又相手はいくらでも付けあがる。 それだからよい時分に鼻ばしらを挫いてしまわねばなるまいと云うような云い方をする者もある。 机上の論とちがって実際にあたっているものは双方感情の激することもあり、遥か遠くからのどかな事ばかり云っていられぬことも慥かにある。 そこは自分共も十分認めている。 が頭ごなしに国力を笠に着て重圧を加えんとする如き態度をとるは甚だ面白くない。 それを痛快がってやっている者もあることはあるがむしろ、そは見ていて自分でも不快の念に打たれる位である。 非常な場合に懲らしめる事は固より悪くない。 けれどもそは最後の場合である。 それをいつでも同じ調子に高圧的手段を常習の如くやっているのはよろしくない。 こは驢馬に乗ったとしてもそうである。 必要でない時いつでも常習的に鞭打つ癖のある者がある。 之と同じわけになる。 云う事を聞かぬ時鞭でたたくのならよいが之を常習的にいつもやられてはたまらぬ。 むしろその云う事をきかぬ時は薬指で以って尻ッぽのつけねの処を撫でていじくってやる方が宜しい。 そうするといくら荒れ馬でも目を小さくして心持がよいと云わぬばかりの態度をとるに至る。 こは自分どもの実験から来た本当の話なのである。 中国の人を取扱う方法を驢馬に譬えて云うなど中国人には失礼な云い方になるかも知れぬがすべて人情も馬の情もその心持に於いては変りがないとの事を云わん為めこの例を引いたわけである。

 人は云う日本人に中国馬を扱わせると無理にムチを持って打つ。 それだから馬の性質を悪くする。 日本人は家畜に対する馴らせ方が上手でない。 同じ馬を中国人に扱わせるならそれこそ実際に柔らかく手あたりがよろしい。 その為馬は素直に気分が和らぐ。 同じ馬の取扱いがこれほどにも違うと云う。 これは日本人は性が気短かの方であり中国人は気が長い方であるからその性質の然らしむるところ如何とも出来ぬと云う説明もつく。 けれども小鳥にしても虫にしてもその飼い方はたしかによく研究されている。 中国の人は自分で小鳥の気持になり又虫の気分にもなれる。 蘭の花や葉をつむにしても鉄のハサミを用いないで竹製のものを使っている。 この一事を以ってしてもその一端がわかる。 そこには決して無理のあたるような事はせぬと云う心理状態がこまやかにはたらく。 つまり有終の美をなすべく細心の注意を払っているのである。

 理窟の前には仁とか忠恕とか云うものは馬鹿馬鹿しく思われるかも知れぬ。 けれども中国の人は蘭に対しても動物に対してもその気持を失わぬ様に努めている。 そしてそこに一種の趣味を覚えている。 その点に興味を感じているのだからゆったりと打ちかかる。 その興味なり趣味なりを一般日常生活の中にとり入れてなごやかにやっている。 それだから実物に対して手あたりが和らかく相手の気持となってやっている事がよく理解せられるのである。 理窟でなくては納まらぬ等考えるのは甚だ理智に勝ち過ぎた話である。 すべてを忠恕の二字に尽きるような態度で以って接する事これが一般住民なりに向かう心掛けの根本方策としておきたいのである。

 中国を旅して北京あたりの電車の中で誤って他の客の足を踏む事がある。 そこでどうも済みませぬと云うと、あちらからとても思いもよらぬ挨拶をされることがある。

「あなたは私の足を踏むつもりで踏んだのではないでしょう」と来る。

 こう云う気持が日本人の口からその時咄嗟に出るであろうか。 余程修養の積んだ者でなくてはとても出るものではない。 これが自然に出る言葉とすると、その平生にいかにそうしたお世辞なり忠恕の気分なりが練りに練れていたものであるかと云う事を察知し得るのである。

 理窟で争う時は本腰を入れて争うもよろしい。 大いに争うべしであるけれど平素日中人双方が互に接触し共に生活圏内でなごやかに行こうと云う時は出来るだけ突剣どんな態度はやめて、この思いやり忠恕の気分で行く様に心掛くべきである。 ここが本当の日中の国民外交の要点としなくては嘘である。 国力をいつも翳して肩で風を切ると云う様な風にやっていては中国へ出掛けている者自身も骨が折れて仕方がない。 気を遣わずしておのずからなごやかに出られる様修養を積む事、これが何よりも必要である。

(後藤朝太郎著「四億萬の御客様」<昭和十五年発行>より)

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