壕に入れてもらえなかった私
1941年12月8日、太平洋戦争が勃発して以来、障害者であった私の生活はすべて変わりました。 それ以来、「カタワ」「チンバ」と呼ばれ、名前で呼ばれることはありませんでした。 「チンバじゃ戦争にも行けん。 家でおとなしくしていろ」と言われるばかりでした。
サイパンが陥落し、本土決戦の話が出始めると、「神は鬼畜米英を神の国に呼び込んで撲滅されるだろう。 カタワ者は模擬銃でも持って、海岸に弾よけにでも並んでもらうか」などと、傷痍軍人上がりの町内会長から言われました。
軍港だった長崎県佐世保市に住んでいたので、度重なるB29の空襲に遭いましたが、防空壕の中には一度も入れてもらえませんでした。 大空襲の時も母に抱きしめられながら逃げ回りました。 その時、母は「一寸先はどうなるか分からない。 明日のことを信じて生きようね」と、優しく語りかけてくれました。 その通り、防空壕に入っていた人が焼夷弾で入口をふさがれ亡くなりました。
股関節カリエスの障害者であっても、77歳の今日まで人生を楽しく生きてこられたのは、明日を信じて希望を捨てなかったからだと思っています。
<自営業 藤村 芳朗 福岡県久留米市 77>
(H22・8・20 朝日新聞<朝刊>所載)
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